14.六度目の夏に(3)
テーブルに広げられたままの帳簿をめくり、昨日もスネイクが来ていたことを知る。その前日は来ていない。そのさらに前は二日続けて名前がある。いずれもリリィの部屋を訪れていた。スネイクが十七区へ戻ってきて数週間が経つ。彼は劇場街の小さな劇場、灰猫歌劇場の役者となり、いま公演中の作品では主演と脚本を務めていた。来るのはたいてい夜公演を終えてからの深夜になるので、夜がはやいクロウは一度会ったそれきりだった。
食事の後片付けを終えて二階へあがる。奥の部屋を訪れるとリリィは化粧以外の身支度をすませて待っていた。
「ごめん、遅くなって」
「そんなことないよ」
綿毛のようにふわりと笑ってリリィはベッドに腰かけた。クロウは椅子を引き寄せてリリィの正面に座り、体をひねってうしろの化粧台から髪留めをたぐり寄せる。それを合図にリリィは口づけを乞うように目を伏せた。
指の皮一枚でリリィの肌に触れる。血管が透けそうな薄い瞼に翳りを、ふっくらした頬には恥じらいを添える。なにもしなくても潤った唇は指を押しつけるとたわみながら包み込んでくる。強すぎる色を避けて口もとには華やぎを灯した。
化粧をするあいだだけは許される距離が、呼吸が、視線が、指先があった。無防備に目を閉じるリリィの濡れた蜘蛛の糸のように震える睫毛を間近から見つめて、暴力的なほどやわらかな体温を指の背で吸いあげる。水辺で拾ったきれいなガラス片をいつまでもポケットに入れて楽しむように、クロウはリリィに触れるこの時間を深く愛した。
いまさら約束なんてと誘惑する声は消えない。その声によろめくこともある。だがふたりのあいだには卵の殻の薄膜のような隔たりがあり、そのたびクロウは踏みとどまった。薄膜はクロウのおそれだ。マダムとの約束を踏みにじり、リリィの気持ちをないがしろにしてクロウの思うままにすることで、これまで大切にしてきた時間を失ってしまうかもしれない。一度失えばもう二度と手に入らない類いのものだ。そんなふうになにもかも手放してしまうくらいなら、クロウはこの指先だけで満足する日常を選んだ。
指に残った紅と唇の感触を舌で舐めとる。苦くて、いつも顔が歪んだ。
もういいよというクロウの囁きでリリィは目をひらく。手鏡を覗いて甘く微笑んだ。
「ゆうべ、スネイクにクロウの歌のこと話したら、一度聴いてみたいって」
スネイクの話をするとき、リリィの肌が内側から照るように感じられることがあった。そのわけをクロウは知っている。
「なんでおれの話なんてしてるんだよ」
「どうして。だめ?」
「だめっていうか……」
散らかした化粧品を片付けながらクロウは言葉選びに難渋する。スネイクに恋をしているのに、とは言えない。
「変だろ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
共通の知人の話はしやすいのかもしれない。だがクロウにとっては苦痛でしかない。
聖堂から鐘の音が響く。
「じゃあおれそろそろ仕事に戻るよ」
「うん」
手鏡を見つめたままリリィは浅くうなずいた。
クロウは部屋のドアをゆっくり閉じながらリリィの横顔を見つめる。眩しさに目を細めた。はかなくて頼りなかった笑顔はもうない。地に足のついた満たされた目をしている。クロウが五年かけても得られなかったものを、スネイクはほんの数週間で引き出してしまった。悔しくないといえば嘘になる。ただ、いまは彼女のうつくしい横顔を見ていられるなら、クロウは苦しいながらも充分にしあわせだった。
騒動が起こったのはそれから数日後のことだった。
風呂あがりにクロウが川辺で涼みながら歌っていると、館のなかから客の怒鳴り声が聞こえてきた。どんと大きな音もする。クロウは急いで館へ戻り、階段を駆け上がった。いくつかの部屋のドアがひらいて、なかから女や客が顔を出して様子をうかがっていた。その視線の先にはアウルがいる。彼女は廊下のいちばん奥にあるリリィの部屋の前に立っていた。ドアを叩いてなかに呼びかけている。クロウはアウルに駆け寄って袖をひいた。どうしたのかと小声で問いかけるがアウルはこたえない。
「お願いします、お客さま。こちらを開けてください」
なかから返事はない。それでもアウルは何度も繰り返しなかに呼びかけた。かすかに衣擦れの音がするが他にはなにも聞こえてこない。不安が募りついにクロウが合鍵を取りに行こうとしたとき、ゆっくりとドアはひらいた。大柄な男がぬっと出てくる。顔に傷があるが粗野な感じはない。制服は着ていないが身のこなしに軍人らしさがある。
「お客さま、どうなさいましたか」
「ここでは言えん。マダム、下でゆっくり話をさせてもらうぞ」
アウルと客が階段をおりていく。去り際アウルはリリィを頼むと囁いた。クロウは客の姿が見えなくなってから部屋へ飛び込んだ。
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