13.六度目の夏に(2)
花屋の店先にさまざまな色や形の百合が並ぶ季節になった。病院からの帰り道、雑貨店へ向かう足をしばらくとめる。あの日白百合を贈ることができなかった悔しさは消えない。たとえいま買って帰ったとしてもその穴が埋まるようには思えなかった。
雑貨店で石鹸やブラシを買う。馴染みの店員とマダムの病いのことや店の状況などを話していると、奥から出てきた店主が思いがけない名前を口にした。
「おお、クロウ、おまえスネイクには会ったか」
「え?」
久しく聞いていなかったせいか、名前と人物がすぐには合致しなかった。クロウの様子を見て店主はばつが悪そうに頭を掻いた。
「あ、いや、昨日うちにきたもんだから、てっきり青鷺にも行ったかと」
「ごめん、あんまり懐かしい名前でおれもびっくりしすぎた。気にしないで」
「一区で役者をしてたらしいが肌に合わないからって誘いを断って帰ってきたってよ」
「どうだか。どうせ追い出されたんだろ」
「気まぐれなあいつのことだ。いつまでここにいるかわかんねえけど」
「そうだね。教えてくれてありがとう」
買った荷物を受け取って店をあとにする。頭のなかがまっしろでなにも考えられなかった。クロウは自然と走り出していた。荷物を置いたらすぐ青蜥蜴館へ乗り込まねばならない。一秒でもはやくスネイクを見つけて一発でも二発でも殴らないと気が済まない。青鷺館へ来ていないのが腹立たしいわけではない。それよりマダムのことだ。青蜥蜴館の旦那からマダムのことを聞いていないはずがない。だがさきほどマダムはスネイクのことなどひとつも言わなかった。それは見舞いに来なかったからにほかならない。
青鷺館へ戻って玄関に荷物を投げ置いて、身を翻す。だが数歩進んだところでクロウは足をとめた。館の奥から話し声と笑い声がしたのだ。クロウは閉まりかけたドアを掴んで戻り、玄関脇にあるマダムの応接室へ飛び込んだ。
ソファに座ってこちらを向いたアウルと目が合う。彼女の向かいには男がひとり、ゆったりと腰かけていた。アウルの面差しがこわばるのを視界の端に捉えながらクロウは男のほうへ大股で歩み寄り、胸ぐらを掴んだ。
男はうっすらと笑みを浮かべてクロウを見あげる。
「よお、クロウ」
「こんなところでなにしてんだよ」
スネイク、とクロウは絞り出すように男の名を呼んだ。スネイクはテーブルの上をちらりと見やる。
「あー、お茶会?」
「ふざけんな!」
力まかせにスネイクの頬を殴りつける。
「マダムのこと聞いてんだろ、なんで見舞いのひとつも行けないんだよ!」
「やめなさい、クロウ!」
アウルが伸ばしかけた手をスネイクは視線で押しとどめる。殴られた頬をさすりながらゆらりと立ちあがると、おもむろにクロウを殴り返す。クロウは衝撃で足をとられてソファに倒れこんだ。
「いってぇ……」
「ばあさんの見舞いなら昨日青蜥蜴で知ってすぐに行った。話に聞いてたよりずっとぴんぴんしてたんでがっかりしたけどな」
「昨日、行った?」
クロウは呆然とスネイクを見あげてまばたきを繰り返した。
「え、でもマダムはなにも……」
「そんなことまでおれが知るか。はあ、まったく本気で殴りやがって……、公演の日まで腫れが残ったらどうするつもりだよ」
「あんたたちちょっと待ってなさい、タオル持ってくるから」
アウルは笑いながらそう言って奥へ下がった。井戸水を汲んできてくれるのだろう。
ソファに倒れこんだままのクロウの隣にスネイクが座る。互いの膝が当たる。スネイクが邪魔そうに押してくるので、クロウは脚を引いて体を起こした。
「役者って、ほんとなのか」
「ああ。とりあえずは場末の酒場からはじめて、人脈を作って、どうにか帝演の舞台に立てるようにはなったが……」
「けんかでもした?」
「いまの殴りあいには及ばないくそみたいなけんかだ」
「そっか」
食堂の前で別れてから五年の歳月が流れていた。スネイクはあの日から時間を越えてやってきたようになにも変わらない。それがうれしくて面映ゆい。
アウルが作った冷たいタオルを頬に当てる。腫れてきているのか、井戸水がいっそう冷たく感じた。
「ちょっとスネイク、ボタンが」
スネイクはアウルに指さされてシャツを見おろした。襟から二つめと三つめが千切れかけている。
「まじかよ、おいクロウ」
「ごめん、おれが付け直す」
じゃあ、とスネイクは口にしかけて、けれどすぐに首を振った。
「いや、おまえらふたりともこれから準備で忙しい時間だろ。針と糸だけ貸してくれたら自分でやるよ」
「わかった」
だがいつも裁縫道具を置いてある場所はからっぽになっていた。
あっ、とアウルが呟く。
「そういえばリリィが持っていったんだった」
「リリィ? 聞いたことない名前だな」
「五年もいなけりゃあね」
「それで部屋は?」
アウルは天井を指さす。
「ちょうどこの真上。廊下のいちばん奥だよ」
「じゃあ借りてくる」
スネイクはカップに残っていた紅茶を飲み干して応接室を出ていく。その背中に別れの日の姿が重なって、気づくとクロウはスネイクを追っていた。
「スネイク」
階段のなかほどでスネイクが振り返る。
「なんだよ、まだ殴り足りないか」
「そうじゃなくて……、メシ、食っていかないか」
クロウの誘いにわずかな驚きを見せつつスネイクは頬に笑い皺を刻んだ。
「たのしみにしてるよ」
「腹すかせて待ってろ」
玄関に置いていた荷物を担いで厨房へ入る。鶏の手羽先と野菜を煮込んでスープにする。そのあいだにパイ生地を伸ばしスパイスたっぷりの挽肉を包んで焼いた。青菜のサラダには焼きつけた夏野菜を添える。あとは酒にあうように蒸した芋と燻製肉を用意した。
身支度の合間を縫って女たちが食事にくる。
「今日はすごいごちそうじゃない、クロウ」
「なんかいいことあったんでしょ」
「喋ってないではやく食えよ」
彼女たちに平らげられてはたまらないのでスネイクの分を取り分けておく。だが女たちが仕事へ向かい、空がすっかり夜空に覆われても、スネイクは下へ降りてこなかった。待ちくたびれたクロウはいつのまにかテーブルに突っ伏して眠ってしまう。
夜風の冷たさに目をさますと取り分けてあった皿はすっかりきれいになって、ごちそうさまと書き置きが残されていた。たしかにスネイクの筆で安堵する一方、スネイクがなにをしていたのか考えるといやに胸がざわついた。
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