12.六度目の夏に(1)
にわか雨が上がるのを待って、小さくなっていた靴を新調した。
しばらく踵を踏んでやり過ごしていたが、みっともないとアウルに叱られてしまったのだった。店員からはちょうどよい大きさを勧められたが、どうせまた小さくなるからとすこし大きめにした。紐をきつく縛れば踵を踏むよりずっと歩きやすい。
青鷺館へ戻ったクロウは食事の準備をしながら郵便物や手紙をあらためる。マダム宛てのものは一括りにして鞄へ入れた。代わりにマダムが読み終えた新聞と本をテーブルに出した。本に挟まれた紙片には次に持っていく本のタイトルが書かれている。筆跡はひどく震えていた。
マダムはいま青鷺館にはいない。ひと月前に倒れてから病院で寝起きをしている。運ばれた直後は意識が朦朧として会話もままならなかったが、近ごろは杖をついて歩いたり本を読んだりということができるまで回復した。ただこれまでとおなじように過ごすことは難しいと医師はいう。クロウとアウルは館で看病することを望んだがマダムは病院を選び、青鷺館をアウルに譲って引退した。いまはクロウとアウルが交代でマダムのもとへ通い着替えや本を届けた。
スペアリブに甘酸っぱいソースをかけてオーブンで炙り、もいだばかりの野菜は手でちぎって桶の水に放った。井戸から汲んだばかりの水は冷たくて心地いい。夏がきたのだと実感する。
リリィと出会って六度目の夏の訪れだった。
オーブンの焼き網にこびりついた焦げを落としていると背中になにかが触れた。それは腰をなぞって体の側面から前へと伸びてくる。クロウは絡みついてくる腕を見おろして肩ごしに振り返った。
「リリィ、洗いづらい」
訴えるとリリィはより強く抱きついてくる。
「また背伸びた?」
「わかんない。それよりほら、離して」
クロウは体をよじってリリィの腕から逃れる。リリィは頬をふくらませた。
「クロウはからだが大きくなっていじわるになったよね。むかしは小さくてかわいかったのに」
「自分に都合のいいように言って。撫でまわせなくなったからつまらないだけだろ」
「ちがうよ。わたし知ってるんだから。他のみんなはわたしよりもっとクロウにくっついてるって。わたしのことだけ避けてるでしょ」
「なにそれ」
さらりと笑ってクロウはふたたびリリィに背を向けた。網をこする手に力をこめながらいう。
「リリィがいうとおり、もしおれがリリィのこと避けてたら、いつまでも化粧してあげたりなんかしないよ。だってリリィ、もう自分でできるだろ」
「そういうこというのがいじわるっていってるの」
リリィはクロウのシャツを掴んで、背中に耳をよせた。
「歌って、クロウ」
シャツ越しにリリィの吐息が伝わってくる。たまらず腰がしびれた。たとえばアウルやシスルに触れられてもこうはならない。息や、体温や、鼓動を感じたところで揺らがない。リリィだけが例外だった。背が伸びて、手が骨ばって、体の輪郭が男に近づいていくにつれてリリィの指先はクロウにとってなにより乱暴なぬくもりとなった。
「お願い、聴かせて。ここで全部」
こらえるばかりではつらいので、乞われるまま歌にして吐きだす。声変わりを経てもクロウの歌声は透明感を失わなかった。おさないころにはなかった深みを帯び、水底へ届く光のように静かで、はかない。
「クロウの歌、いまのほうがずっと好き。水がしみこんでくるみたいに体のなかに入ってくるのがいい。爪の先までクロウで満たしたくなる」
シャツを掴んでいたリリィの指が背中に触れる。そっと置かれているだけの指先がクロウには刃物のようだった。痛みや恐怖はない。いのちも奪われることはない。だがその刃物はクロウがかろうじて守ってきたものをたやすく壊そうとしてくる。もう無理だと何度も折れそうになっては踏みとどまる。とどまって、とどまって、踏み外した。
思わず歌が途切れて、クロウは慌てて汚れた手を洗う。
「クロウ?」
「ごめんリリィ、おれ青蜥蜴の旦那に頼まれごとしてたの思い出したから、ちょっと行ってくる」
「明日じゃだめなの」
「気になるから」
不服げなリリィを置いて、クロウは裏口から外へ飛び出した。川沿いに走って青鷺館からは見えない場所で立ちどまる。壁にもたれかかって深いため息を吐き出した。
「きつ……」
背中には疼きがある。クロウの欲望のありかをまさぐっていたリリィの指の感触がはっきりと残っている。クロウはその場に座りこんで、西の空に広がるいまだ夜に染まらない光をしばらく眺めていた。
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