11.ブルー・ヘヴン(7)

 リリィはいまだ窓も開けずベッドに腰かけて髪をすいていた。眼差しはぼんやりとしてどこも見ていない。部屋にクロウがいることにも気づかず、髪のおなじ場所にばかり櫛を通していた。

「リリィ」

 花束を背中に隠してすぐそばから声をかけるとリリィは肩を震わせた。

「ああ、クロウ。びっくりした」

 向こうが透けて見えてしまいそうな、散りぎわの花びらのような顔ではかなく笑う。いっそ泣いたり怒ったり当たり散らしたりしてくれたほうが楽だった。クロウは花束を持つ指先に力をこめた。

「リリィに受け取ってほしいものがあるんだ」

「なに?」

「目を、つむって」

「いいよ」

 櫛をおろしてリリィは素直に睫毛を伏せる。クロウは彼女の膝にそっと花束を置いた。

「クロウ、これなに」

「もう見ていいよ」

 ひらかれていく彼女の瞳がゆっくりと花束をとらえる。吐息のような感嘆がもれた。

「クロウ、これどうしたの」

「リリィに見てほしくて。かわいくて、きれいな香りがするから」

 リリィは花に顔をよせた。

「ほんと、いい香り」

 夜が明けるようにじわりとリリィの頬がやわらいでいく。

「すごく嬉しい、ありがとうクロウ。わたしこの花好きだよ」

 リリィはクロウを抱きよせた。押し当てられた額が熱い。シャツの胸もとがほんのわずか濡れた。できれば抱きしめ返してあげたかったけれど、クロウはマダムのことを思いなにもせず突っ立った。

「ねえクロウ、わたしなにかお返しがしたい」

「そんなのいいよ。おれがしたくてやったことだから」

「そうだ、わたしの村にある綿雲の唄を教えてあげる。いつもこれを歌いながら荷馬車に乗ったんだよ」

「うた?」

 クロウはリリィの歌声に興味がわいた。

「どんなの、聴かせて」

 リリィはクロウに抱きついたまま歌い出した。


 雨上がりの青空に

 虹の橋をとびこえて

 さみしがりやの綿雲ひとつ

 夕暮れのこがね色

 鳥の群れとたわむれて

 照れて真っ赤の綿雲ふたつ 

 夜が落ちきて紺碧に

 月のしずくを身に浴びて

 夢見がちな綿雲みっつ


 単調で素朴な牧歌だった。リリィの声は糸のように細く震えていたが、話すときよりいっそう愛らしい声をしている。大好きなうたなのとリリィがいうので、クロウもともに口ずさんだ。リリィは顔をあげて、みるみる頬を染めていった。

 歌い終えるとリリィの拍手がクロウを包んだ。

「まるで天使の歌声」

「そう、かな」

 歌を褒められると存在を許されたように感じられた。なによりリリィの表情から翳りが消えているのがうれしかった。

「クロウの歌は神さまに愛された証しなんだよ」

「褒めすぎ」

「そんなことない。わたし、いまとても満たされた気持ちだから」

 人を喜ばせられるのは人だけだと言ったスネイクの冷たくて優しい顔が浮かぶ。クロウは夕食の支度を済ませるとありあわせのドライフルーツでクッキーを焼いた。

 翌日、ポットにミルクティーを作って青蜥蜴館を訪れたがスネイクに会うことはできなかった。彼は数日前に契約を終えて昨日のうちに十七区を去っていた。

 スネイクが使っていた部屋へ入れてもらい、大きなベッドに寝転がる。ふわりと煙草の香りが舞う。クロウはなにもない天井を見つめながら、昨日の最後の言葉がスネイクを行かせてしまったように思っていた。

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