10.ブルー・ヘヴン(6)

「それって……」

「窃盗だ。立派な犯罪だよ」

 往来を見つめるスネイクの眼差しはここではないずっと遠い場所へ向けられていた。

「ロビンと同い年の女だった。性格は正反対だけど妙にうまがあったんだな、客と想い合ってると知るといても立ってもいられなくなったんだろう。散々ばあさんと喧嘩して、いさめるアウルの言うことも聞かず、結局女の手を引いてここを出ていった。女のぶんの通行証なしにどうやって橋を無事渡ったのか知らないけどな」

 グラスになみなみ注がれた酒がテーブルに差し出される。スネイクはそれをすぐに半分にしてしまう。

「あの女が青鷺に来たころおまえはもう生まれていたから、まだ相当の額の契約が残ってたはずだ。組合は青鷺を閉館するとまでいった」

 娼婦を迎えるときには組合と館で費用を折半した。死亡の場合を除き、組合の集金は満額に到達するまでかならず続けられる。もし支払いが滞れば閉館もやむをえなかった。

「よく続けられたね……」

「おれもそのあたりの詳しいことは知らない。だがばあさんからしたらもう二度とごめんだろうな」

「そう、だよな」

 クロウはスプーンを持った手をテーブルの上に置いた。マダムがどんな思いでクロウと約束したのか、考えるだけで胸がいっぱいになる。だがクロウはロビンを責める気持ちにもならなかった。選ばれず置いていかれたことは寂しいが、友情を貫いた母はうつくしかった。

 目頭にこみあげてくるものをクロウは唇を噛んでこらえる。選ばれなかったが、捨てられたわけではないのかもしれない。娼婦を盗んだロビンは帰りたくとも帰れない。青鷺館が存続していると知ればなおさら帰りづらいはずだ。

 頭のうえに大きな手の感触があった。アウルのようにはやわらかくはないけれど、あたたかくて安心できる手だった。ぼろぼろと涙がこぼれる。口のなかのトマト味がしょっぱくなる。

「スネイク……おれどうしたらいい……。リリィの力になりたいけどマダムを困らせたくはない」

「難しいことをきいてくるなあ」

「アウルはおれがしたいようにしろって言った。でもおれは……おれがどうしたいかわからないんだ」

 こたえを求めてクロウが顔をあげると、スネイクは懐かしげに目を細めていた。

「おまえらはやっぱり母子なんだなあ」

 爪の先まで手入れの行き届いた指が涙で濡れた肌をすこし強くこする。

「よく考えればいい。その女がどうしたら笑ってくれるか、頭が擦り切れるまで。重要なのはなにをするかじゃない、どれだけ相手のことを思ったかだ。人を心から喜ばせることができるのは人だけだよ、クロウ」

「だけどそれでリリィが喜んでくれるのかな……。だってどんなに考えたってそれはおれの考えたことでしかないのに」

「それでいいんだよ。おまえは頼まれてもないのに彼女を喜ばせたいんだろ。エゴだと思うならそれははじめからだ。どんなこたえを出したところで逃れられないよ」

 まあとりあえず食えよとスネイクがクロウのほうへ皿を押す。すっかり冷めてしまっていたが不思議とおいしく感じられた。これはきっとスネイクのエゴの味だ。

 朝日のかけらが浮かぶ川面を魚の鱗みたいと言ったリリィを思い出す。故郷では雪に反射する陽光が星のようだったと話してくれた。もっともっとリリィときれいなものを分かち合いたい。そう思った。だがクロウのなけなしの小遣いではドレスも宝石も手が届かない。きれいな景色を見に行こうにも十七区から出ることは叶わない。

 クロウが食べ終わるのと同時にスネイクが店を出ようといった。クロウは静かに席をたった。

 店を出たところでスネイクはクロウの肩を拳で押した。

「じゃあな。こたえが見つかることを祈ってるよ」

「ああ」

 クロウはスネイクの腹に拳を押し当てた。互いの拳を突き合わせてから手をひらいて大きく打ち鳴らす。よし、とスネイクは最後にクロウの頭を撫でた。

 スネイクは青蜥蜴館へと背を向けて歩きだす。気がつくとクロウはその背中を呼びとめていた。

「むかしアウルから聞いたんだ、母さんの言葉。おれの父親はこの街でいちばんいい男だって」

 振り返ったスネイクは首をかしげる。

「それってさ、スネイクのことじゃないの」

「あるわけないだろ、ばーか」

 真顔でそう言って、スネイクは今度こそ雑踏に消えた。クロウも買い出しへ向かう。

 野菜や肉や日用品などを買ううちに、両手が荷物でいっぱいになった。市場でなにかきれいなものを探せないかと考えていたがその余裕はなくなってしまった。まっすぐ青鷺館へ戻ろう、そう思ったとき視界に白い百合がちらついた。体中の血が浮き上がるような興奮が指先にまで達する。クロウは荷物を抱えなおして館まで走り出した。裏口を足で開けて荷物をテーブルの上へ置くと寝起きしている屋根裏部屋まで駆け上がる。棚の奥にしまってある缶の中身をシーツにぶちまけた。淡いピンクの貝殻や磨いたような小石やつやつやとした木の実に硬貨が混じっている。クロウはそれをかき集めて市場へ戻った。

 花屋へ駆けつけるが白百合が見当たらない。たったいま最後の一輪が出てしまったと店主はいう。ほかの花屋を当たってみるがクロウが思うような白百合は見つからなかった。気づけば最初に訪れた花屋まで戻ってきていた。店主の男が声をかけてくる。

「どうだった、って聞くまでもないか。明日になったらまた入ってくると思うが……」

「できたら今日ほしいんだ」

「どうしても白百合じゃないとだめなのか」

 クロウはうなだれるようにうなずいた。

「さっきの様子を見てるとなにか力になりたくて、花束を作ってみたんだ。これならどうだ」

 黄、白、赤、紫の小振りの花が茎の先端へ向かっていくつも連なっている。花びらは蝋のような厚みがあり、甘い香りがまたたくまにクロウを包み込んだ。

「残りものだから安くしとくよ」

 そう言ってくれる店主の気持ちがうれしかった。

「ありがとう。かわいい花だね、これにする」

「よかった! 待ってろ、いまリボンを巻いてやる」

 花に合うようにと淡いピンクのリボンを結んでもらう。クロウは何度も礼をして店を出た。

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