9.ブルー・ヘヴン(5)

 路地を抜けた大通り沿いに十七区で唯一の市場がある。敷地は狭いが通路も狭く、多種多様な店がぎゅうぎゅうになって並んでいた。

 大通りの停車場は今夜の公演を観に来た馬車ですでに混みはじめていた。芝居まではティールームで演劇論を交わすのがブームになっているそうで、以前よりはやい時間から街に人があふれるようになった。ヘヴンでも大きな館では昼から営業をしはじめている。

「おい、ぼんやり突っ立ってるんじゃねえぞ」

 背後から突然蹴り飛ばされたクロウは馬車が走る道路へ飛び出しそうになる。

「なにすんだ!」

 どうにか持ちこたえて振り返ると細身の男が素知らぬ顔をして立っていた。

「スネイク……」

 クロウは呆れて怒鳴りつける言葉もなかった。

「どうしたクロウ、この世の終わりみたいな顔して」

「すごく大人げない大人を前にすると子どもはみんなこうなるんだよ」

「おれがついててやらないと昼寝もできなかったくせにずいぶん生意気いうようになったな」

「うるさい。むかしのことをいちいちに引き合いに出すなっていってるだろ。ていうかスネイクおまえはこんな時間になにやってんだよ」

 スネイクはヘヴン一の娼館・青蜥蜴館の顔ともいうべき男だった。半年ほど前から昼も客をとるようになり、しばらく姿を見ていなかった。

 スネイクは伸びた黒髪を耳にかけて煙草に火をつける。

「あー……、やすみ」

「めずらしいな。具合でも悪いのか」

 どことなく以前より痩せている気がする。張りつめた糸が切れたような存在の心許なさを感じさせた。

 そんな心配をよそにスネイクはにやにやしながらクロウの鼻をつまむ。

「おれのこと心配してくれるんだ」

 クロウはすげなくスネイクの手をはたき落とす。

「ここでぶっ倒れられても迷惑だからな」

「おい、クロウ」

「なんだよ」

「腹減ってないか」

「減ってない」

「おごってやる」

 スネイクが肩を組んできてむりやり歩きだす。

「いや、おれの返事聞いてないだろおい」

「聞いてない」

「だったら最初から聞くな!」

 抜け出そうにも関節を押さえられているのか身動きができない。

「ちょ、ほんとちょっと待って、おれ買い出しにいく途中で……」

「そんなに引きとめるつもりないよ。まあ、すこし付き合えって」

「マダムに怒られる」

「大丈夫、あとでおれから言っとく」

 薄い頬に皺をよせてスネイクは笑う。その顔を見せられるとクロウはなにも言えなくなる。二十ほども歳が違うのにときおりスネイクのほうがずっと少年のようだった。クロウは彼を受けとめてやらなければならない気持ちになる。ずるい、とクロウは小声で呟いた。

 連れられたのは市場の奥にある大衆食堂だった。カウンターで料理を注文して席で待つ。数分もしないうちにテーブルには鶏のレモンソースソテーと三色豆のトマト煮込みが運ばれてきた。スネイクの前には酒とナッツが置かれる。

「食べないのか」

「おれの目的ははなからこれだよ」

 スネイクが酒のグラスを前へ掲げる。クロウは水でこたえた。

「乾杯」

 鶏肉の皮はぱりっと香ばしく肉は汁があふれてやわらかい。バターのこってりとした舌触りもレモンソースの爽やかさで中和されていた。トマト煮込みには豆だけでなく野菜がふんだんに使われている。その内訳は日によってさまざまだが外れはない。

「やっぱりここ最高」

「おまえもたまにはいいだろ、他人が作るメシ」

「え、スネイクがやさしい気持ち悪い」

「なんだようれしいくせに」

 ほんとうのことを言い当てられてクロウは思わず言葉に詰まる。歯をあてるとほろほろ崩れていく豆の食感を楽しみながら、どうしようもなくなって小さくうなずいた。ふと先ほどのアウルたちとの会話を思い出す。

「なあスネイクはどんなことをしてもらえたらうれしい?」

「礼ならおまえのクッキーがいい」

「誰が作るか」

 クロウはリリィのことをスネイクに話した。ひととおり聴き終えるとスネイクは興味なさげにふうんと返す。

「クロウだって新入りが塞ぎ込むのを見るのははじめてじゃないだろう」

「そうなんだけど……、でも世話を任されたのははじめてだから、どうにかしてあげたくて」

「ばあさんと約束したんじゃないのか、情を移さないって。その娼婦がどんなに落ち込んでても仕事はこなしてるならそれ以上深入りしないほうがいい。おまえは淡々と自分の仕事をするべきだ」

 シスルとおなじことをいう。

「わかってるよ、わかってるけど……でもすこしでも笑ってほしいから」

「おまえ、それは……」

 スネイクはしばらく考えこんだあと乱暴に髪を掻いた。

「なあ、ばあさんがなんでそんな約束させたか、おまえ聞いてる?」

「いや……、ギスギスするからかなって勝手に思ってるけど」

「それもなくはないが。この調子じゃおまえロビンのこともちゃんと聞いてないな」

「ロビンって、母さんのこと?」

「他にいない」

 スネイクは店員に二杯目を頼んでため息をつく。

「ばあさんはおまえをロビンみたいにしたくないんだよ」

「客と逃げるようなこと?」

 母のことを話そうとすると意図せず声がかたくなる。拗ねた子どもみたいでクロウは嫌だった。

「そうじゃない。あいつは女を逃したんだ」

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