8.ブルー・ヘヴン(4)
降りそそぐ日差しが肌を焼く。洗いたてのリネンを干しながら空を見あげると、そこには暦より一足はやく夏が広がっていた。
買い置きの缶詰や調味料の在庫を確認していると湯あがりのアウルとシスルがもつれあいながら厨房へ駆け込んできた。
「クロウ暑い! すごく暑い!」
シスルは涼しげな顔をゆがめてクロウの肩にのしかかる。
「暑いなら乗っかるなよ!」
「癒されたい」
「知るか」
払いのけても払いのけても覆いかぶさってくるのでクロウは深いため息をついて川のほうを指した。
「野菜冷やしてるよ」
「さすがクロウ。仕事にそつがない」
「みんなの風呂が終わってから声かけようと思ってたんだけどね。最後の人が選べなくなるから」
「優しいねえ、クロウは」
アウルに頭を撫でられる。子どもあつかいされるのは悔しいし恥ずかしいが相手がアウルだと振り払えなかった。大人しく撫でられていると横からシスルに肩をたたかれる。
「わたしトマト」
「自分で行ってこいよ」
「ありえない。あんな日差しのしたに出たら商売道具に傷がつくでしょ」
シスルは彫刻のように整った顔をつんと澄まして隣に座るアウルの肩にもたれかかった。
「お姉さんもおんなじだからね」
「わかったよ、行けばいいんだろ」
メモとペンをテーブルに叩きつけるまねをしてクロウは裏口から外へ出た。川へせりだすように枝を伸ばす大樹からロープで蓋つきのかごを吊っている。流れがゆるやかなのでなかの野菜が傷む心配もなかった。城壁のように石を積み重ねた護岸に足をかけて川面へ近づく。かごを引き上げてトマトや瓜をシャツの裾にくるむと腹がひんやりと心地いい。残りはふたたび川へおろして、ふと館の二階を振り返った。六部屋のうち五部屋の窓があいていた。閉ざされているのは向かって左端の窓、リリィの部屋だった。今日はまだ顔を見ていない。
「リリィが心配?」
厨房へ戻るとアウルが新聞を読みながら言った。
「マダムに世話を任されたんだってね」
「そう。ここんとこ元気そうにしてたから平気かと思ってたんだけど」
クロウは使い込まれたテーブルに突っ伏して頬を押し当てた。
「昨日言われたんだ。もう村へ帰れなくてもいいって」
「誰だってそう思うときはくるよ」
「そうなんだけど……。アウルにもあった?」
「たぶんね。大昔のことでよく覚えてないけども」
クロウが物心ついたころにはアウルはもう花の名を捨て鳥の名を持っていた。契約を果たしたあとも館へ残る女には新しい名をつけるのがヘヴンでの慣習だった。青鷺館では鳥の名を贈る。
「シスルは……なさそうだよね」
よく熟れたトマトにかぶりついていたシスルは心外なと言いたげに目をすがめた。
「ないといえばないし、あるといえばある。それが正直なとこ」
「どういう意味」
「わたしが憐れまれるの嫌いって知ってるでしょ。なにもかも嫌になる瞬間はあったけど、それを誰かに知られるのはもっと耐えられなかった。それだけ」
あまりにもシスルらしい理由にクロウは感心するしかなかった。
「彼女、そんなこと言いながらもちゃんと仕事してるんでしょ」
「ああ。苦情は来てない」
「だったら大丈夫。たぶんクロウに甘えてるだけ」
彼女たちにしかわからないことがあることはクロウもよく理解している。きっとシスルのいうことは正しい。それでもクロウは釈然としなかった。
「おれはリリィが苦しむための手伝いばかりしてるのに、それなのにおれに甘えるって変だろ」
「なるほど、なるほどねえ」
アウルとシスルは目を見合わせて、額を突き合わせてくすくすと笑った。小声でかわいいと聞こえてくる。
「ちょっとー、いい気分しないんですけどー」
ごめんごめんとアウルが顔をあげる。
「だったらねクロウ、リリィはあんたがなにをしたら喜んでくれると思うんだい」
「それは……」
こたえられなかった。食事も身の回りの世話も化粧もすべてしごとに繋がっている。それでは意味がない。
アウルはクロウの頬を撫でて微笑んだ。
「あんたのしたいようになさい。それがいちばんだよ」
午後二時を告げる鐘が聞こえる。クロウはお茶を切り上げて市場へ買い出しに向かった。
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