7.ブルー・ヘヴン(3)
ふいに毛布のなかでリリィがクロウの指を掴んだ。
「リリィ?」
「あ……あのねクロウ、こんなことまだ十歳の男の子にお願いすることじゃないってわかってるんだけど、それでも他に頼れる人もいなくて……」
「こんな、こと……?」
知るかぎりのさまざまなことを思い浮かべてクロウはみるみる顔を真っ赤にした。それを見たリリィも耳まで赤くして首を激しく振る。
「ち、ちがうの。そういう意味じゃなくて、あの、その、……お化粧を教えてほしいの」
「え……あっ、あー化粧、化粧ね」
死にたくなる気持ちをこらえてクロウはぼんやり笑う。
「シスルさんとかアウルさんみたいにきれいなお化粧をしてみたいんだけど、どうしたらいいのか……。聞いてみようって何度も思ったんだけど、まだすこし怖くて」
アウルはともかくシスルは気位が高く取っつきにくいところがある。誰に対するときも態度を変えないので慣れると付き合いやすいが、入ったばかりのリリィには話しかけることも難しいだろう。
「それでリリィはこれまでどうしてたの」
「紅を」
「それと?」
「それだけ」
「だけ?」
リリィはこくりとうなずいた。
「それはさすがにさっぱりしすぎだね……」
クロウは背後の化粧台を見やる。リリィの苦戦のあとなのか化粧道具が散乱していた。
「おれがやってあげようか」
気づくとそう呟いていた。
物心つく前から女たちの身支度を見てきた。化粧も髪結いも実際にやったことはないが手順はすべてわかっていた。だがそれをクロウがしてやるとなるとそれはまた別の話だ。化粧をするということは、彼女に触れることを避けられない。
自分でもびっくりして慌ててリリィを振り返る。彼女は教えてほしいといっただけで、してくれとは言っていない。
「あ、やるっていうか、そうじゃなくて」
「いいの?」
「え」
「クロウがして、くれるの?」
「えっと、なんていうか……」
「うれしい、わたしがするよりきっと上手だもん」
朝日を浴びる川面のようなきらめきをもってリリィが笑う。もうあとには引けなかった。クロウは髪留めでリリィの前髪をあげて白粉の箱をひらいた。
「目、閉じてて」
「うん」
微笑みを残したままリリィは素直に目を閉じた。直視しようとすると手が汗ばんでくる。クロウは服の裾で何度も手のひらを拭ってからリリィの肌に白粉をはたいた。いくら見慣れていてもいざやってみると力加減や色選びは想像以上に難しい。それでもリリィに喜んでほしい、その一心でクロウは手を動かした。リリィのやわらかな雰囲気を消してしまわないよう陰影は控えめに、鳶色の瞳にあうよう瞼には灰色がかった青で濃淡を作る。残すは紅だけになり、クロウはひと息をついた。
「リリィ、もういいよ」
呼びかけにリリィが目をひらく。手鏡を渡すとため息をもらした。
「すごいねクロウ。初めて……だったんでしょ」
「たいしたことないよ。あとこれ」
クロウは持っていた紅をリリィの膝の上に置いた。
「紅は自分でしてたんだよね」
「そう、だけど……」
リリィは小さな容器の蓋をあけてふたたび目を閉ざした。
「お願い、クロウ」
「ええぇ……」
「最後までして?」
「もおぉ……」
そこまで言われては断りきれない。クロウは人差し指で紅をすくった。
「すこし口ひらいて」
リリィの細い顎に親指を添えてうながす。乾燥した唇の奥に並びのいい歯とぽってりした舌がのぞいた。所在なさげに動いている。小指につけた保湿液を先にぬりこんでから淡くて優しいピンクをすべらせた。髪留めを外してブラシで髪全体を丁寧にといていると、首のうしろからリリィの香りが広がった。あまくて生々しい、雨で蒸れた花のような香りだった。クロウははっと息をのむ。
それは白百合の香り。彼女の名前だ。
頭の横側の髪をざっくりと編み込んで他と一緒に束ねる。
「はい、できたよ」
「ありがとう、クロウ」
手鏡を覗いて、リリィは無邪気に喜んだ。その姿に安堵する一方、血の気が引くようにすっと冷えていく体温をクロウは静かに見つめていた。こんなふうに彼女が笑ってくれるのは最初で最後かもしれないと思うとマダムとの約束がひどく胸に沁みる。
その夜、リリィははじめての客を迎えた。
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