6.ブルー・ヘヴン(2)
リリィが青鷺館へ来て数日、彼女にはいまだひとりも客がつかない。
「わたしはあんたに頼んだはずだよ。どうなってんだい」
マダムに尻をたたかれ、早朝クロウはリリィの部屋を訪れた。テーブルの端っこで不安げに食事をする彼女には気づいていた。何度か視線で求められた自覚もある。初日の気まずさが鍋底の焦げのようにこびりついているとはいえ、世話を任されながら無視したことをクロウも後ろめたく思っていた。
ドア越しに呼びかけると彼女はすでに起きていた。
「おはよ、リリィ」
「おはよう」
リリィはベッドに腰かけて窓の外を眺めていた。部屋にはまだいくらか薄暗さが残っている。夜明けがいっそう明るく感じられた。
「ねえクロウ、ここの朝はきれいだね」
彼女の声は夜に後ろ髪をひかれて沈んでいた。クロウは彼女のそばに寄り添い、おなじ角度で朝を見つめる。
「どこもおなじじゃないの」
「そんなことないよ。川の水に朝日が当たってすごくきらきらして、まるで大きな魚の鱗みたい」
リリィが指さす先をクロウも目で追う。
「そうかな」
「わたしの住んでたところはね、ここからずっとずっと北のほうにあるの。一年のうち半分は雪に埋もれているようなところ。よく晴れた朝は夜のうち積もった雪がおなじようにきらきらしたけど、あれは……星みたいだった」
「雪って見たことない」
クロウは行商の男から聞いた話を思い返す。
「氷みたいに冷たいのにやわらかくて、すぐ融けるんだろ」
「うん。でもかたく握ることもできるよ」
「せっかくやわらかいのに、なんのためにそんなこと」
それはと呟いてリリィは深く考え込んでしまう。
「えーっとね、投げて……」
「投げて?」
「ぶつける」
「なんだそれ」
クロウはたまらず吹き出した。
「意味わかんないけど、でもなんか楽しそうだな」
「うん、すごくね、楽しかった」
光に洗われるようにして対岸の街並みが暗がりから顔を出す。ゆっくりと移り変わる景色に見とれていると、すすり泣く声が聞こえた。
「かえりたい。村に帰りたい」
リリィの鳶色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「みんなに会いたい……」
「だったらはやく客をとれるようにならないと」
クロウはリリィの足もとにしゃがみこみ顔をのぞいた。ぬぐっても、ぬぐっても、涙はとまらない。リリィはクロウよりもずっとおさない子どものように泣きじゃくった。
リリィのような身の上はヘヴンではよくある話だ。クロウは特に驚いたりはしない。女たちは故郷の景色を語り、家族との思い出を大切そうに打ち明けて自在に泣く。そうやって必死に生きる彼女らをクロウはいとしく思う。だからいま感じている無力感もおなじ親愛によるものだと思っていた。
ぬぐいきれなかった涙がクロウの頬にぽつりと落ちる。やわらかくて冷たい涙だった。まるで話に聞く雪のようだった。驚いて指で触れると、クロウの頬は燃えるように熱かった。
得体の知れない情動が皮膚のしたで蠢いていた。不気味でありながら妙な心地よさがある。クロウは眉をゆがめて微笑んだ。
「雪、きれいだね」
「え……?」
リリィの眼差しがようやくクロウへ向けられる。
「大丈夫、リリィならきっとすぐにここを出られるよ。村に帰ったらさ、雪のにおいがする手紙をちょうだい」
「クロウ……」
リリィの指が縋るようにクロウの手を握る。色こそ白いが働き者のがさついた手をしていた。
「冷えてるね、リリィ」
「そうかな。ぜんぜん寒くないよ」
「ずっと風に当たってたんだろ」
「うん」
クロウはリリィの肩に毛布をかける。それでもすぐにはあたたまらない。毛布で両手を包んでやり、その上から何度もこすった。情を移すなというマダムの顔が脳裏に浮かぶ。クロウは毛布越しだからと言いわけをして、はあっと息を吹きかけて繰り返した。
「もういいよクロウ、ありがとう。もうあったかいよ」
「だけどみんな冷えると肌の調子が悪くなるとか、具合がよくなくなるとか言ってる」
「わたしは寒いところの生まれだからこのくらいは平気なの」
「それでも……、それでもたぶんあったかいほうがいいと思うから」
クロウは小声でぼそぼそと続けた。
「おれ手伝うよ、リリィがはやく村へ帰れるように」
恥ずかしさと申し訳なさでクロウはリリィの顔を見れなくなった。
「あっほら、マダムからも頼まれてるしさ!」
「う、うん、そうだったね、ごめんね……、ありがとう」
リリィもそれきり黙り込んでうつむいてしまう。朝の静寂のなか、クロウは高鳴る心臓の音がリリィに聞かれないことを祈っていた。
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