ブルー・ヘヴン(2)

 クロウが化粧をした日から、リリィにもちらほらと客がつくようになった。初日こそ張り切っていたリリィだったが、顔色は日に日に悪くなり、声をかけても、うんとかああとかいう返事しかしない。クロウにできるのは、すぐに乱れるとわかっている化粧をすこしでも丁寧にしてやることくらいだった。

 食欲も落ちているようなので、献立にも気を配った。クロウは他の娼婦らに、つらいときでも食べやすい料理を尋ねてみた。

「わたしはミルクシチューが好きだねえ」

「鶏の香草焼もおいしいよね、詰めた野菜がほくほくで幸せになっちゃう」

「川魚の蒸し物もソースの酸味が効いてていいけどなあ」

「なあ……みんな、それ自分の好きなの言ってるだけだろ」

 クロウが冷ややかに指摘すると、彼女らは悪びれる様子もなく、

「だって好物はいつだって食べられるものよ」

 と口々に言い募った。クロウは盛大にため息をついた。

「役に立たない」

「なんだい、いらいらと。……ああ、リリィのことだね?」

 優しく見つめられ、クロウは素直にうなずいた。女たちは、それぞれ懐かしそうな目をして微笑む。

「はじめは誰だってそんなもんだよ」

「クロウは新入りを見るのは初めてかい」

「そんなことはないんだけど」

「小さかったから覚えてないんだね」

「わたしが来たころは、クロウまだ赤ん坊で可愛かったなあ」

「えー、クロウはいまでも可愛いじゃないの」

 顔を真っ赤にした女がクロウの背中に抱きついた。

「うわっ、酒くせえ」

「んんー、クロウってばいい匂いー」

「離れろよ、献立考えてんだから」

「けちー」

 女は唇を尖らせながらも素直に離れた。

「で、かわいい料理長さん、献立は決まりそうかい?」

「うーん。おれ、とりあえず市場に行ってくる。見ながら決めてくるよ」

 クロウは劇場街を挟んで反対側にある市場へ向かった。

 劇場街の大通りでは、馬車が何台も連なって降車待ちをしていた。降りてくる女はどれもドレスや宝石で身を飾り立て、三日月のような笑みを浮かべている。彼女らを見ていると、なぜヘヴンに来る男が絶えないのかわかる気がした。

「おい、ぼんやり突っ立ってんなよ、ひよっこ」

 突然後ろから蹴り飛ばされ、クロウは前へつんのめった。

「なにすんだ!」

 どうにか体勢を持ち直して振り返ると、細身の男がにやにやと笑みを浮かべて立っていた。

「スネイク……」

 クロウは呆れて次の言葉が出てこない。

「なんだ、クロウ。この世の終わりみたいな顔して」

「すごく大人げない大人を前にすると、子どもはみんなこうなるんだよ」

「自分のこともわかってないガキが、わかったようなこと言ってんじゃねえよ」

 スネイクは鼻先が触れあいそうなほど顔を近づける。いつもはどこかへらへらと笑っているスネイクが、珍しく真剣な目をしていた。彼は男娼だ。女だけではなく男も相手にし、十七区ではいちばん人気があるという。そのスネイクに間近から見つめられて抗える者など、誰ひとりとしていない。クロウもまた、息もできないほど体の自由を奪われた。

「おい、クロウ」

「な、なに」

「メシに付き合え」

「は?」

「おごってやる」

「ちょ、ちょっとスネイク!」

 クロウは襟首をひょいと掴まれ、引きずられるようにして歩いた。途中で靴が脱げたが、スネイクはお構いなしに先へ進んでいく。クロウには、どうか誰も持っていきませんようにと祈るしかできなかった。

 スネイクに連れられた店は、高級店でも会員制の秘密クラブでもなく、狭い通路の先にある大衆食堂だった。安い、はやい、うまいの三拍子が揃った人気店で、昼時を過ぎてもまだ人でごった返していた。

 どうにか空席を見つけて食事をはじめるころには、店に溢れる肉や香辛料のかおりですっかり空腹になっていた。

「はい、お待ちー」

 クロウには鶏と三色豆の甘辛煮込みが、スネイクの前には酒だけが運ばれた。

「食べないのか」

「これがおれのメシ」

 スネイクはうまそうに酒を呷り、テーブルに頬杖をついてぼんやり煙草を吹かした。

 騒々しい店内では、テーブルに向かい合った互いの声も聞き取りづらい。腹が満たされるにつれてクロウは気が弛み、独り言のようにぽつぽつとリリィのことを話しはじめた。スネイクは相槌も打たず、聞いているのかいないのかわからない顔をしている。それでもクロウは彼がそこにいてくれるだけで嬉しかった。

 スネイクは三杯目のお代わりをぐっと飲み干し、頬に笑い皺を寄せた。

「ヘヴン生まれってやつは、どいつもこいつもばかばっかりだな」

「悪かったな」

「ばあさんの言いつけは忘れたのかよ」

「情が移らないようにってやつ? おれ、そんなことしてねえし」

 顔を赤くしてクロウが顔を背けると、スネイクはにやにやしながらクロウの頭を撫でまわした。

「おまえは情が移るっていう言葉の意味を、どんなふうに理解してる」

「一応、おれのほうから触れないってことかと……」

「間違ってないが、それだけじゃない。売られてきたものの側に立たないってことだ。ヘヴン生まれが娼婦の側に立つと、揉め事が増えるだけで大抵ろくなことにならない。おまえの母親がいい例だ」

「ロビンが? なに言ってんだよ。心中に見せかけて娼婦を殺して、自分は男と逃げたんだろ。どこが娼婦の側だよ、むしろ敵じゃねえか」

「おまえ、それ誰から聞いた」

 吸っていた煙草を灰皿へ押しつけて、スネイクはゆっくりと煙を吐く。そうしているときの眼差しは、体温を感じさせないほど冷たい。

「いや……大体みんなそう言ってるから」

「みんなって青鷺の女か」

「違う。市場の人とか、劇場の人とか」

「青鷺のやつらはなにも言ってないのか」

 クロウがうなずくとスネイクは、ばあさんめと呟いて頭を掻いた。

「まあいいか。置き土産に話してやるよ」

 強い日差しで白く塗り潰された店の外へと視線を投げて、スネイクは光のいたずらのような一瞬の微笑みを浮かべた。その完璧な微笑に、クロウは置き土産という言葉への追及をし損ねた。

「まだおまえが赤ん坊だったころの話だ。青鷺にディアって娼婦がいた。褐色の異国の肌をして、鹿のような脚をした女だった」

 いくら娼婦とはいえ、女の脚はそう簡単に見られるものではない。肌を重ねたことがあるのだ。

「そいつがある男に入れ揚げて、売り物にならなくなった」

 娼婦らのことを語るとき、スネイクの言葉は冷たい。まるで物のように扱う。それはスネイク自身に向けられた棘でもあった。

「すぐに払い下げの話がまとまって明日にも青鷺を去るって日の夜、ディアは男の首を絞めて、自分は首を吊ったんだ」

「払い下げの話は本人にしちゃいけないんじゃないのか」

「ああ。たぶん誰もしなかった。でも男の顔を見て気づいたんだろうな。そういう生きものだから」

 ヘヴン生まれのクロウには、その一言で察した。頭でわかるのではない、体が納得するのだ。

「ところが女が死んだあとに、男が目を覚ました。気を失ってただけだったんだよ」

「どうして……」

 確かめなかったのか、という言葉は声にならなかった。その問いはあまりにも残酷に思えたのだった。

 空になったグラスを手のひらで転がしながら、スネイクは感情のない声で続ける。

「それでロビンが怒りだした。払い下げにする前に、請け出すよう男に話をするべきだったとな。男は区長の息子なんだから、金は都合できただろうって。それでロビンとばあさんが揉めたんだ。話は、そもそも女たちの金の取り分が少ないことにまで発展した」

「取り分は組合で決められてるんだから、どうしようもないのに」

「そうだ。ばかな女だよ」

 何を思い出したのか、そこでふっとスネイクが笑った。

「スネイク……?」

「あのときはロビンの愚痴に散々付き合わされて大変だったんだ。おれは仕事でくたくただっていうのに、うちの旦那に面倒見てやれって言われるし、散々な目にあったな」

 スネイクが属している青蜥蜴館はヘヴンでもっとも大きな娼館で、その旦那と青鷺館のマダムは古くから懇意にしていた。人手が足りないときなどは、クロウも青蜥蜴館の厨房で手伝いをすることがある。

 椅子に片膝を立てて頬杖をつき、スネイクは賑やかな店内を見るともなく見つめている。

「いきなり倉庫を整理するって言い出したんだ、ロビンが。無理やり手伝わされて、あの奥の部屋から屋根裏にいくつも箱を運んだよ。くそ重たい寝台と化粧台も動かして大掃除だ」

 物憂い眼差しは、ここにはない景色を捉えているようだった。

「そうやって、娼婦ロビンの部屋になった」

「え」

「自分の稼ぎを女たちに分配して、すこしでも早くここから出て行けるようにって。そのころ絶縁状態だったばあさんはロビンをとめようとはしないし、元より人の言うことを聞くような女じゃないからな。ロビンはおまえを寝かしつけてから、客を取ってたんだ」

 クロウは愕然として、スプーンを持ち上げていた腕を机のうえにおろした。嘘だと口のなかで呟きながらも、スネイクの横顔に真実を確信する。

「そっか……それで誰も話してくれなかったんだ……」

「あいつなりの、弔意と報復、反抗でもあったんだろう。でも客の口を塞ぐことはできない。すぐに組合が動きだした。おまえも知ってるように、登録されていない娼婦に客を取らせることは禁じられてるからな。当時組合長だった旦那の計らいで罰則金は払わずに済んだが、青鷺は厳重注意として十日間の営業停止処分になった。ロビンが男と一緒に十七区を出ていったのは、再開直後の慌しいときだった」

 スネイクがロビンの名を口にするたび、記憶の奥深くに眠っていた母の気配が強くなる。クロウはこれまで思い出したこともない母のぬくもりを全身で感じ取っていた。そしてそれがすでに失われたものであることに、深く絶望をした。

「どうしておれは、連れてってもらえなかったんだろう。どうしておれじゃなくて、その男だったんだろう」

 その問いにスネイクは答えようとしなかった。クロウは取り繕うように快活に笑い、机の下でスネイクの足を蹴った。

「なあ、スネイクから見て、ロビンはどんな人だった」

「そうだな……」

 新しい煙草に火をつけながら、スネイクは素知らぬ様子でクロウの足を蹴り返した。

「あれは突風みたいな女だったよ。激しくて、唐突で、加減知らずで、大切なものほど壊していくような」

「それって迷惑な人ってこと?」

「ざっくり言えばそうだ。一緒に出てった区長の息子も、ロビンのことを頼りにはしてたが、惚れてるって感じじゃなかったな。いつも顔に、扱いきれないって書いてやがった」

「ふたりは恋人同士じゃなかったの?」

「さあ、それはおれの知るところじゃねえよ」

 吐き出した紫煙を目で追って、スネイクは唇を歪めた。

「クロウ、おまえには女の代わりに金を稼ぐことも、そいつを買ってやることもできない。根本的に解決することは不可能だ」

 頭では理解していることをあらためて断言され、クロウは皿に残っていた鶏肉を口へ運んだ。すっかり冷めて身はかたくなり、ソースがべっとりと口のなかにまとわりついた。

「だけどいいか、おまえに解決できることはなくても、おまえにできることならある」

「えっ」

 クロウは椅子に座りなおして、テーブルに身を乗り出した。

「できることって、なんだよ」

「その女が喜ぶことをしろ。人を喜ばせられるのは、人だけだ」

「お化粧ならしてあげてるよ。それで喜んでくれてる」

「仕事に必要なことをするんじゃなくて、どうでもいいことのほうがいい。生きていくのに必要のない、でもしてもらうと嬉しい、そういうことのほうがいいはずだ」

「どうでもいいこと……?」

「ああ。女のことを思い浮かべて、女の笑顔を願ってみろ。そうすれば、おのずと見えてくる」

「うーん」

 天井を見あげて思い浮かべてみようとするが、あまりにも薄汚れていてそんな気になれない。クロウは気恥ずかしさを感じながら目を閉じてみた。

 たとえば彼女が愛するものは何だろうかと考えてみる。すぐに、故郷の話をしてくれたときのリリィが思い出された。帰りたいと言った切実な声が、いまもまだ耳の奥でこだましている。いや、とクロウは胸のうちで首を振った。故郷を思い出させるものはかえって悲しませるだけだろう。しかしその他に思いつくことはなく、自分は彼女のことを何も知らないのだと痛感させられた。

 風向きが変わったのか、スネイクの煙草の香りが強くなる。蜜からできているのではと思うほど、彼の煙草からは甘い花の香りがする。クロウはこの香りが好きだった。不思議と懐かしく、気持ちが落ち着くのだ。すんすんと鼻を鳴らして嗅いでいると、不意にリリィの香りが思い出された。

「ねえ、スネイク。百合っていま咲いてる?」

「ああ、つい最近もらったな。あるんじゃないか」

「おれ……行ってくる!」

 クロウは勢いよく立ち上がった。

「おう、行ってこい」

 走り出した背中にスネイクの声が投げられる。クロウはふと母の言葉を思い出し、振り返った。

「ロビンが言ったんだ。この街でいちばんいい男がおれの父親だって」

「へえ」

「それってスネイクなんじゃないのか」

「んなわけあるか、ばーか。さっさと行け」

「うん、ありがとう!」

 クロウは店を飛び出した。靴が片方ないことを思いだし、無事に回収して青鷺館へ戻った。息を切らしながら、寝起きしている屋根裏へあがる。棚の奥に仕舞いこんでいた缶を取り出し、中身を床にばら撒いた。淡いピンクの貝殻や、磨いたように丸い小石や、壊れてしまった虫の抜け殻や、鋭く尖らせた小枝に混じって、硬貨がいくつか埋もれている。クロウはそれを拾い集め、全財産を握りしめて市場の花屋へ向かった。

 いくつもある花屋のなかから、業者や娼館向けではない、一般向きの店を選んだ。店に一歩入ると熱風のように花の香りが押し寄せて、目眩を起こしそうになる。

「すみません、白い百合をください」

 店主らしき小太りの男に声をかけると、男は愛想よく笑って壁際を指した。

「ほら、どれでも好きなの選べ」

 壇上の大きな甕には、色とりどりの百合が詰まっていた。求めていた白百合も、すでに花がひらいているものから咲こうとしているものまで揃っている。

「すぐにあげるから、もう咲いてるのがいいな」

「じゃあ、これなんかどうだ」

 男が手にした一輪には大きな花がふたつと蕾がひとつ付いていた。

「うん、それがいい。はいこれ」

 クロウはずっと手の中に握って温かくなった硬貨を、男の手のひらに置いた。しかしその瞬間、店主の顔が曇る。

「すまないが、これじゃ足りないよ」

「え……、どうして。だってこれだけあれば鶏のたまごが買えるのに」

 絶望感で視界が滲む。男の大きくぶ厚い手で頭を撫でられ、雨漏りしたように涙がぽつりと落ちた。

「ぼうず、他の花じゃ、だめか」

「百合がいい。どうしても白い百合がいいんだ」

「母さんか?」

「違う。おれんちヘヴンなんだけど、そこに来た女の子」

「そうか。ちょっと待ってろよ」

 店主は奥の部屋へ行き、すぐに戻ってきた。手には小さな花束を持っている。

「これはどうだ」

「え……、でも百合じゃない」

「たしかに百合じゃないが、こっちならお代はいらないよ。持って帰るといい」

「くれるの……?」

「ああ。だいぶくたびれてて、もう売り物にならないんだ」

 紫色をした小振りの花が、茎の先端に向かって幾つも連なっている。男の言うようにすこし元気がなく、花びらはしおれかかっていたが、香り高く、佇まいはどこまでも可憐だ。

 リリィはこの花のほうが好きかもしれない。クロウはそう感じた。

「かわいい花だね」

「よし、それじゃリボン巻いてやるからな」

 花に合うように淡いピンクのリボンを巻いてもらい、クロウは何度も礼をして店をあとにした。

 強い風が吹くと花びらが飛んでしまいそうで、腕で囲いを作る。あまり力んでも花を潰してしまうので、目には見えない誰かを抱きしめるようにしてクロウは青鷺館へ帰った。

 二階の角部屋へ行くと、リリィは寝台のうえで髪を梳いていた。その眼差しは重く、翳りがある。クロウが入ってきたことに気づいていない様子で、ずっと同じ髪の束に櫛を通している。

「リリィ?」

 花束をうしろに隠し、すぐそばまで近寄って声をかけると、リリィは体を震わせて驚いた。

「ああ、クロウ。びっくりした」

 いまにも向こうが透けて見えてしまいそうな、はかない顔で笑う。いっそ、泣いたり怒ったりしてくれたならどれだけ楽だろうと、クロウはいつものように顔を逸らしそうになった。

 だが今日は、背中に秘密兵器がある。

「リリィにあげたいものがあるんだ」

 顔をあげ、まっすぐリリィに向かい合う。

「なに?」

「目をつむってくれる?」

「いいけど……」

 櫛を横に置き、リリィは長さの揃った睫毛を伏せた。そうやってじっとしているリリィをクロウは見慣れているはずだが、いまはひどく胸が高鳴って、息をするのも苦しかった。

 膝に置かれたリリィの手に、そっと花束を置く。

「もういいよ、開けて」

 クロウはリリィの隣に腰かけた。ひらかれていく彼女の瞳が、ゆっくりと花束をとらえる。吐息のような感嘆がもれた。

「クロウ、これどうしたの」

「かわいい花だろ。すこし元気がないかもしれないけど、まだすごくいい匂いがするんだ」

「ほんとだ……。これ、わたしに?」

「うん。ほんとは百合が欲しかったんだけど。ごめんね」

「ううん。うれしい、すごく嬉しい。わたし、この花好きだよ」

 リリィは水を掬うようにして花を両手で抱きしめ、そこに顔をうずめた。

「ありがとう、クロウ」

 肩を震わせ、リリィは泣いた。クロウは花屋の店主がしてくれたように彼女の頭を撫でてやりたかったが、唇を噛んでこらえた。

 開け放していた窓から、対岸にある聖堂の鐘が聞こえてくる。しばらく泣き続けていたリリィは、しゃくりあげながら掠れた声で呟いた。

「なにかお礼がしたい」

「そんなのいいよ」

「そうだ、わたしの村にある綿雲の唄を歌ってあげる」

「綿雲の唄? どんなの、聴きたい!」

 どんな唄でもいい。クロウはただ、リリィの歌声が聴いてみたかった。

 リリィは背中をぴんと伸ばし、目を閉じた。すこし前に出した右足でとんとんと調子をとる。体は小さくなめらかに左右へ振れた。

「雨粒のロープを渡り渡って、虹の橋を飛び越えて、さみしがり屋の綿雲ひとつ」

 素朴な旋律の唄だった。リリィの声は紡いだ糸のように細く繊細で、決して上手いとは言えないが愛らしいものだった。

「お山のてっぺん取り巻いて、ぐるぐる巻いて蛇になる。白いお雪を飲みこんだなら、綿雲ふたつ」

「楽しい唄!」

 クロウが笑うと、リリィも歌いながら笑みを浮かべた。

「お城の煙突怒りだし、お空に真っ黒綿雲みっつ。悲しい綿雲泣きだしたから、おてんとさまはにこにこ笑って、そよ風そよそよ踊っていたら、みっつの綿雲いっこになって、山羊もメーエも歌いだす」

 クロウが拍手を送ると、リリィは照れくさそうに肩をすくめた。

「おもしろい唄でしょ」

「うん、覚えやすいしね」

 クロウはすぐさま鼻歌まじりに口ずさむ。するとリリィは瞠目して、頬を上気させた。

「クロウ、上手!」

「そうかな」

 歌を褒められると、存在のすべてを肯定されたような心地がした。ロビンに置き去りにされたことも、許せる気がした。

「天使の歌声って、クロウのことね」

「褒めすぎだよ、リリィ」

「ううん。そんなことない。わたし、いまとても満たされた気持ちよ」

 花を受け取ったときよりもずっと澄み切った目で微笑むリリィに、クロウはわずかに寂しさを覚えたが、彼女が喜んでくれるならそれも些細なことだった。

 人を喜ばせられるのは人だけだと言ったスネイクの、冷たくて優しい顔が思い浮かぶ。素直に礼を言うのは癪だったので、むしろスネイクが怯むくらい慇懃にしてやろうとクロウは密やかに笑った。

 しかし翌日、マダムからの手紙を預かり青蜥蜴館に向かうと、そこにもうスネイクはいなかった。すべての借金を払い終え、晴れて自由の身となった彼は、昨日のうちに十七区を出て行ったのだった。

 クロウはスネイクの名が刻まれた耳環を見つめながら、昨日の最後の問いかけがスネイクを行かせてしまったように思っていた。

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