5.ブルー・ヘヴン(1)

 帝国十七区。

 一区と二区のあいだを流れる川の中州につくられた大歓楽街を、人々は帝国都心部が十六区までであることにあわせてそう呼んだ。

 処刑場だった中州に芝居小屋が建てられたのは、まだ死刑制度があった百年ほど前のことだという。刑の執行を見るため訪れた人々が暇つぶしに演劇を要求したのがはじまりで、小屋の数が増えるとともに酒場や宿、さらに川向こうでは禁止されていた賭場や闘技場が公然と営業して賑わった。規制をしようにも中州の管轄が一区でも二区でもないことから対応は後手にまわり、そのあいだに芝居小屋は石造りやレンガ造りの劇場へと姿を変えていた。かつては一区と二区で押しつけあっていた中州の所属だったが、いまは双方が権利を主張するようになった。その結果十七区はいまだどの区にも属さず、誰の支配も受けない街だった。

 その十七区の川沿いに色街がある。建物はすべて青で統一され、対岸からは青天が落ちたように見える。

 人々はそこをヘヴンと呼んだ。

 ヘブンには二種類、売られて来たものと生まれ落ちたものがいる。クロウは後者で、母のロビンもまたそうだったと聞いていた。

 クロウには母の記憶がない。クロウがまだ三つのころに男と十七区を去ったきり一度も帰らないのだった。また母が打ち明けることがなかったためクロウは父が誰かもわからない。ともに去った男だという人もいれば、ほかの女の客を寝取ったという人もいる。当時のことを知るアウルに聞いてみたが、この街でいちばんいい男らしいよと答えをはぐらかされたのでそれ以来父について訊ねることはやめた。

 たった三つでひとりきりになったクロウは大伯母にあたるマダム・ラークが引き取りそのまま青鷺館で育てられることになった。故郷や家族と離れ離れになった娼婦らはその穴をうめるようにクロウの面倒をよくみた。クロウも自分の居場所を求めるように炊事や掃除をこなし、十歳になるころには女たちの身支度まで手伝えるようになっていた。

 クロウはそういう卒のない自分に満足しながら、ときおりどうしようもなく自分が嫌いになった。


 春の終わりの冷たい雨が降る日だった。マダムがひとりの少女を連れて帰ってきた。クロウよりも頭ふたつぶん大きく体つきは少女と呼ぶには大人びていたが、化粧気のない顔はおさなく垢抜けなかった。

 新しく青鷺館に雇われたということはクロウにもわかる。だがクロウとおなじ裏方か娼婦かはマダムの表情をうかがうだけでは判断がつかなかった。裏方ならば気づかいはいらない。だがもし娼婦であった場合クロウは彼女に自分から触れられない。

 伸びるままに任せたような不揃いな髪が小刻みに震えていた。クロウは肩にかけていたストールを慌てて少女に渡し、かたく握りしめられた手を両手でそっと包んだ。

「寒い? お茶いれようか」

 少女はすこし驚いたような顔をしてうなずいた。クロウは優しく微笑み返す。

「おれはクロウ。おねえさんは?」

「わたしは、シ――」

「リリィ。この娘の名前はリリィだよ」

 少女のか細い言葉をマダムは断頭台の刃のように断ち切る。少女の名前を聞き取ることはできなかったが、マダムが告げた名と異なることだけはわかった。花の名は青鷺館での娼婦の証しだ。クロウはリリィから手を離した。

 館の手伝いをするようになってからマダムと交わした約束がある。館の女に情をうつさないこと。仲良くするのは構わないがそれだけは守ってほしいとマダムはいった。情をうつすという言葉の意味を薄々知っていたクロウは、自分のほうからは彼女らに触れないことで約束にこたえていた。

 マダムは鋭い目を細めて笑ったようだった。

「世話を頼んだよ。今夜からでも客がとれるようにしてやってちょうだい」

「おれが?」

「他は手があいてないんだ。悪いね」

「……わかった」

 しかたなく承諾してクロウはリリィを手招いた。ずっと使われていなかった二階の奥の部屋へ案内する。掃除はしていたのですぐに使えるが、長く無人だった部屋は寒々しく感じられた。

 雨なので窓を開けるのはすこしにする。ベッドにかけてあった分厚いカバーをたたんでから、どうぞとリリィを呼んだ。

「今日からここがリリィの部屋だよ」

 リリィはしばらく部屋の手前で立ちすくんでいたが、クロウにストールを引っ張られてどうにかベッドへと座った。

 クロウは窓際の化粧台を指す。

「化粧道具はだいたい揃ってるはずだけど、足りないものがあったら言って。風呂の順番はリリィの場合いちばん最後だから気をつけてね。間違えると隣の部屋のシスルがうるさいから。食事は一日二回。厨房は好きに使ってくれていいけど、派手に食べたときは教えて。買い出しの都合もあるから。あとなにかあったかな、……あ、服は共同のクローゼットがあるからいまはそこ使ってね。いまはおれが見繕ってくるけど、好きな色とか形とかある?」

 クロウの問いかけにリリィは弱々しく首を振った。

「そ。じゃあ適当に選んでくるよ」

 肌が白いので淡い色がきっと似合う。クローゼットへ向かおうとすると、リリィに待ってと呼びとめられた。

「なに?」

「あの……」

 いまにも消え入りそうなリリィの声にクロウは首をかしげる。

「やっぱり希望ある?」

「きみもここで、その……働いてるの?」

 いつかは聞かれると思っていたのでクロウは驚かなかった。

「違うよ。おれはヘブン生まれなだけ」

「そっか。でも、どうしてこんなところに?」

 こんなところ、と口のなかで小さく繰り返してから、クロウは子どもらしく素直にこたえる。

「マダムはおれの大伯母さんだから。働かざるもの食うべからずで、こき使われてるけどね」

「そうなんだ……、かわいそうに」

「は?」

 思わずこぼれた刺々しさに気づいてほしくてクロウはあえて取り繕わずにいたが、リリィは気に留めることなく話し続ける。

「わたし、まさかこんなことになるなんて思ってなかった。蓄えがどんどん減って、頼みのヤギも死んでしまって……。ちょうどそんなとき、隣の村に人買いが来てるって、父さんが、わたしに頭を下げて……」

 リリィは両手でスカートを握りしめてうつむいた。

「わたしひとりがこうなることで家族が助かるなら……、そう思ったけど、どうしても不安で。ここで働いていくことなんて想像もできない」

「それでもそうやって生きていくしかないんじゃない」

「そう、だね」

 消え入りそうな声でリリィは呟く。

「わたしもはやく、クロウみたいにならなきゃ」

 そのときクロウはうまれてはじめて、怒りが全身の力を奪い取ってしまうこともあると知った。怒鳴ったり、掴みかかったりすることもできない。

 傷つけるために発せられる言葉はかすり傷を負っても致命傷にはならない。それよりも情けや親しみから生まれる言葉は避けようがなく、土足で心のやわらかな部分を踏みにじっていく。さらに、傷つけられたと声をあげることも許されない。

 クロウはうつむきがちに口を歪めた。

「リリィもかわいそうにね」

「うん、ありがとう」

 リリィは頼りなく、けれどうれしそうに笑っていた。クロウの悪意は届かなかった。そのことがいっそうクロウを苛んだ。またあとでくるよと手を振って部屋をあとにする。

 階段を勢いよく駆けおりながら、自分はかわいそうなんかじゃないと心にいいきかせる。クロウは女たちと違って自由で、大人ほどの面倒ごともない。両親の生死はわからないが日々の生活に支障はない。与えられた仕事はきちんとこなせるし、女たちのわがままに応えて恩を売ることだってできる。いざというときは健気な子どもの笑顔を見せればなんとかなった。

 ただときおり、ほんのささいなことで自分の心が不自由になる瞬間があった。どうにも苦しくて虚しくてやりきれなくなる。

 夕食に使う芋の皮をむきながらクロウは流行り歌を口ずさむ。ため息を吐き出したいときには歌を歌った。歌ならば誰に遠慮することもない。聞かれても心配されないし、やめろという人もいない。

 傷口を舐めるようにクロウは歌う。それでもおさまらない痛みは切り捨てて、小さく丸めて川へ投げ捨てた。

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