4.囚われの姫王子(4)
空は白みはじめていた。
クロウの生家へと続く裏路地は狭く日当たりも悪いせいか数日前の雨でいまだ泥濘んでいた。子どものころは飛び越えるしかできなかった水たまりを大きな一歩でまたぐ。脇道から飛び出してきた猫がクロウに驚いて引き返す。どこからか荷車を引く音がする。短い階段を降りて角を曲がると、冷たい風が頬を掠めて空へ駆けていった。目の前にはひときわ青い建物が立ち並ぶ。この場所を離れて二年。劇場街とは目と鼻の先なのに、帰ってくるたび苦しくなるほどの懐かしさがあふれてくる。クロウは鉄製の青鷺を掲げる一軒の扉に手をかけた。
川に沿うように建つ細長い館は時間が止まったように静まりかえっていた。誰もまだ眠りのなかにある。川辺の冷たい空気がどこからともなく肌に吸いついてきて、クロウはたまらずくしゃみをした。
「あら、クロウじゃない」
玄関脇の部屋からガウンをはおった女が出てくる。起き抜けのためか目が半分ほどしか開いていない。ぼんやりとしたまま両腕を伸ばしてくるので、クロウは両手を広げて受けとめた。
「だいぶ飲んだ?」
「飲まされたねえ。むかし馴染みだから断れなくて」
「聞いてるよ、マダム・アウルの人生相談だろ」
「まったくもう、変な話だよ。ここは娼館なんだから女の子を抱いていけっていうんだけどね、わたしと飲んでるのが気楽でいいんだってさ。おなじだけお代を払ってくれるから文句は言えないし」
「わかるよ、おれ。その客の気持ち」
アウルのふわふわとした赤毛に顔を埋めるとほっとする。クロウはすこし痩せたアウルを抱きしめて、おつかれさまと背中をやさしくたたいた。
「あんたまでそんなこというの」
「褒めてるんだよ?」
「へえ? ……でもまあ、クロウがそういうなら、そういうことにしておこうかな」
「なんだ、まんざらでもないんじゃん」
「ひとこと多い」
ふたりで顔を見合わせてくすくすと笑いあう。アウルはクロウの頬に手をやってしばらく寂しげに見つめると、見えない涙を拭うように撫でた。
「すこし会わないあいだに、すぐ大人になるね」
「おれは変わらないよ」
「……ごめんね、引きとめて。行っておいで」
腕をほどいてアウルは二階を指した。クロウは名残惜しいような不安からしばらくアウルの指先を握っていたが観念して手を離す。
「また今度ウィルに差し入れ持ってこさせるよ」
「ああ、あの男前ね。楽しみにしてるよ」
さらりと手を振ってアウルは部屋へ戻る。それを見送ってからクロウは二階へあがった。
二階は狭い間隔でドアが六つ並んでいる。相変わらず散らかった廊下を進んでいちばん奥の部屋の前に立った。深呼吸をしてから部屋へ入る。なかには大きめのベッドと化粧台が置かれているだけで、他にはなにもない。ドアの正面にある窓からは対岸の街が見えた。一区だ。空には朝日があふれていても、地上にはまだ夜が沈殿している。川沿いの建物こそはっきり見てとれるが、あとは山のようにひとかたまりになって聳えていた。そこに帝国演劇場もあった。
空を映した川面は青く白くきらめいていた。耳をすましていると、ときおり魚の跳ねる音が響く。二年前の朝は嵐がすぎたあとで川は濁り、風が強く吹く音ばかりが耳についた。
『ねえクロウ、歌って』
クロウはベッドにもぐりこんで毛布を抱きしめた。太陽のにおいがするだけで、どこにも彼女の気配はない。白百合のように清艶で濃密な香りがする女だった。いつか自分も彼女の香りを失くしてしまうのかと思うとたまらなくなって、クロウは毛布に顔をうずめて声を殺して叫んだ。
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