3.囚われの姫王子(3)

 スネイクは煙草に火をつけて、煙とともに口をひらいた。

「一区へ行かないか、クロウ」

 感情のかけらもない静かすぎる声だった。だからこそ伝わってくるスネイクの気持ちの強さがある。クロウは彼の真剣さに戸惑い、たまらず顔を逸らした。

「なんだよ突然」

「声をかけられた。帝演に来ないかって」

「すごい、よかったじゃんか。これでスネイクも人気作家の仲間入りってわけだ。公演が決まったら教えろよ、見に行くからさ。ついでに観光でもしようかな。そのときは案内くらいしてくれるんだろ」

「クロウ」

 先ほどよりも冷えた声で名を呼ばれ、クロウは下唇を噛んで黙り込んだ。

「クロウ、わかってるんだろう。誘われたのはおまえだ。おれはそのついでにすぎない。ずっとおまえの舞台を書いてきたおれに、さすがに向こうも姫王子だけくれとは言えない」

「へえ、ああそう」

 持っていた切り抜きを指ではじいてクロウはソファに深くもたれかかった。

「行きたいならスネイクひとりで行けば。昔みたいにさ。おれはここを離れるつもりないから」

「ばかか、おまえは。いいか、こんな機会はそうあるもんじゃない。帝演の代表みずから足を運んで声をかけるなんて聞いたこともない。それを――」

「ああもうしつこいな」

 クロウはスネイクの言葉を強い口調で遮った。

「帝演、帝演って……、振られた女にいつまでも未練たらたらでみっともないんだよ」

 スネイクは眉ひとつ動かさず、じっとクロウの話を聞いていた。昔からそうだった。わがままなくせに人懐っこく、誰とでもすぐに打ち解けて旧知の仲みたいに飲み明かしたりする一方で、自分のことは話そうとせず、心の核に触れようとすると表情も感情もはなからないような顔をした。クロウはスネイクが取り乱すさまを見たことがない。

 乱したい。傷つけたい。そう思った。

 せめてスネイクを道連れにでもしないと、汚され傷ついてしまった歌はいつまでも報われない。

 クロウはさらに言葉を重ねた。

「そんなに帝演でやりたい? おれにはそう見えないんだけど。スネイクはさ、復讐したいだけだろ。おれを帝演の舞台に立たせれば由緒ある劇場の品位なんて一瞬で穢せる。そうやっておまえは、かつておまえの夢を簡単に破り捨てたやつらを辱めたい。違うか」

「なるほど」

 スネイクは翳りのある目を細めて笑ったようだった。

「たしかにおまえならあいつらを見返すのもわけないだろうな」

「は? 見返す? なに言ってんだよ。おれが言いたいのはそんなことじゃ……」

「おまえはやがて帝演の看板を背負う、そういう器だ。じゃなきゃ毎夜あんなに客が押し寄せてくるものか」

「……は、ははっ」

 クロウはたまらず乾いた笑いをもらした。

「看板? 器? まさか。ただ物珍しいだけだろ。ヘヴン生まれの男が着飾って、娼婦みたいな化粧をしてさ。おきれいな舞台に飽きた金持ち連中にとって退屈しのぎにちょうどいいんだよ」

 舞台にあがってからずっとクロウは光を浴び続けた。その光が強ければ強いほどすぐ背後には他よりも濃い影が落ちる。賞賛の数だけ心ない言葉もかけられた。それがまさかこんなふうに自分の口から出てくるなんて思いもしなかった。これではまるで密かに傷ついていたみたいだと気づいて困惑する。

 煙草の香りを追ってスネイクの表情をうかがう。相変わらずの無表情だが、あまりにも行き過ぎているようにも感じた。なにも言い返してこないこともまた表情や感情なのではないか。そう考えれば沈黙はきっと苛立ちだ。ここでやめておいたほうがいいと理性はいう。だがクロウは体を前へ乗り出した。

「歌、踊り、芝居、どれをとってもおれは十七区の、この街の手垢がしみついた低俗なものしかできない。だってそれしか知らないから……、そういう低俗な身体にうまれついてしまったから……。おれはいつだって舞台っていう高みから見下ろしながら、真っ暗な客席に潜むたくさんの視線に組み敷かれてるんだよ。もっと見てもらえるように媚びて、それでもだめならもっと見てくれと縋りついて、喘ぐように歌って踊って、喝采のなかでいかされて。……なあ、一緒だよスネイク。おれもおまえとおなじ男娼みたい――」

 ふたりのあいだにあったくずかごをスネイクが蹴り倒す。クロウは思わず続く言葉を飲み込んだ。

 スネイクは悠然と脚を組んで煙草を吸っているだけなのに、クロウは喉もとを押さえつけられたように息をするのも苦しい。

 ふっとスネイクがクロウの眼差しを拾う。一度目が合うと、逸らせなくなる。

「一区がこわいのか、クロウ」

 スネイクの声は小さな子を相手にするように穏やかだった。くずかごを蹴り飛ばした衝動で怒鳴られたほうがいっそ楽になれただろう。クロウはせめてスネイクを睨みつけた。

 どうやらこわくはないみたいだなとスネイクは静かに微笑む。

「だったらおれを怒らせたかっただけか。それとも本気でそんなふうに思ってるのか。どうなんだ」

「そんなこと……」

 訊かれてもクロウにはわからない。自分のなにが評価されているのか。自分はなんのために歌っているのか。わからないまま快感に流されて舞台に上がり続けている。その惰性を責められているように感じられて、クロウは強がることもできなかった。

 花の香りにも似たあまい紫煙が、ほどけながら漂う。

「もし本気なら、おれはとんだ勘違いをしてたことになるな」

 場違いなほど爽やかに微笑んで、スネイクは部屋の奥を見やった。そこには舞台袖へと繋がる階段がある。

「歌ってる当人にはわからないんだろうな。おまえが縋りつく? 組み敷かれてる? ばかいうな。ほんとうにそうなら、おれはあんな本を書いたりしない。いまの姫だってそうだろう。どんなに失って、どんなに傷ついて真っ黒に染まったとしても、歌と翼は折れない。最後には自分の足で立って歩きだすんだ。おまえだってそうじゃないのか」

「……おれが?」

 スネイクの言葉を胸のうちで反芻して、クロウははっと息をのんだ。

「待てよ……スネイク、おまえもしかして気づいて……」

 しかしスネイクはクロウの問いにはこたえない。

「おまえはもはや姫王子なんてかわいいもんじゃない。おまえは王だ、女王だ。劇場の支配者なんだ。おれにはおまえが舞台に立つたび、この劇場のあちこちにヒビが入るように感じる。この舞台はおまえにはもう小さすぎるんだよ」

「なあおい、こたえろよスネイク。おまえこの夜がそうだって気づいてるのか。気づいてておれにそんな話をするのか!」

「だからクロウ、一緒に十七区を出よう」

 肯定ともとれる笑みを浮かべてスネイクは手を伸ばす。クロウは立ち上がってその手を叩き落とした。走り続けたみたいに息があがる。耳鳴りがして音がこもる。スネイクを睨みつけてやりたいのに、顔を見れば泣いてしまいそうでうつむくしかできない。

 クロウと呼ぶスネイクの声は腹立たしいほどやさしい。

「おまえがここに縛られる理由なんてないはずだろう」

「それは……」

 たしかにスネイクのいうとおりなのかもしれない。けれど彼にだけは言われたくなかった。

「クロウ」

「やめろ」

「クロウ、歌ってくれ」

「やめろよ!」

 すっかり静かになった廊下にまで声が響く。

「おれは……、おれは舞台になんてあがりたくなかった。ただ、おまえに借りを返すために、そのために穴埋めをしただけで……。失くしたくなかったのに、そのためには歌なんてどうなってもよかったのに、結局おれの手にはなにも残らなくて、……スネイク、おまえのせいだよ。おまえはあの日、おれの歌をも殺したんだ。それを、いまさら……」

 指先がざわりとしてかたく拳を握る。薄い皮膚の下を流れる喝采の血潮がクロウを見ていた。誰でもない声が言葉なく責める。それはおまえが無力だからだと。

 くずかごを蹴り飛ばしたせいで床にはごみが散らばっていた。スネイクはそこから白百合を拾い上げて傷んだ花弁に触れた。

「けさだったか」

「……いや、この夜が明けたら」

「二年か」

 もうとも、まだともスネイクは言わなかった。そのことにクロウは喜びとも安堵ともつかない安らぎを覚える。

 煙草のあまい香りに誘われて顔をあげる。スネイクの手が伸びてきて、クロウの髪に白百合をさした。

「すぐにこたえを出せとはいわない。しばらく考えてくれ」

 はぐらかすような微笑みも突き放すような無表情もそこにはなかった。真剣なのだと悟らざるをえない。スネイクはそれ以上なにも言わず静かに立ち去った。

 白百合に触れる。冷たいはずの花びらに体温がある。ときおりスネイクは砂糖菓子のようにあまくやさしい。だからあのときも期待したのだ。

「リリィ……」

 くたびれた温もりが指先をすり抜けていく。薄暗い床にちぎれた花びらがひとひら、明け方の月のようにぼんやりと浮かび上がっていた。

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