2.囚われの姫王子(2)

 緞帳が降りてからもしばらくは深く礼をした姿のまま動こうとはしなかった。動けなかった。首すじの汗が顎を伝って落ちていく。水のなかから上がったように一気に呼吸が楽になる。肩で大きく息をして顔をあげるとおぼつかない足どりで歩きだす。手足の感覚がほとんどない。まるで誰かに体を乗っ取られたような居心地の悪さがあった。

 舞台袖でふらついたところを横から支えられる。

「大丈夫ですか、クロウ」

「あ、ああ」

 しっかりと返事をしたつもりだったが、自分の声はほとんど聞こえなかった。姫王子ーークロウは立ち止まり、先ほどまでいた場所を振り返る。割れんばかりの拍手とともに興奮の余韻が漂っていた。

「今日もすばらしい舞台でした」

 聞こえるようにと耳のすぐそばで賞賛を送る男をクロウは笑った。支えてくれていた腕をつれなく払う。

「誰に言ってんの、ウィル」

「もちろんおれの姫王子にですよ」

「ばーか、おれは誰のものでもないよ」

 目を細めて微笑むと、ウィルははいと微笑み返すだけでもう手を貸そうとはしなかった。いつものやりとりに緊張がやわらぐ。手足がようやく自分のものになっていく手応えがあった。もうひとりのクロウは今夜も天へと帰っていった。

 目眩がしてぐにゃぐにゃと地面が歪む。壁にもたれながら階段をくだり薄暗い楽屋へ戻ると、汗ばんだ毛皮を脱ぎ捨ててソファに身を投げた。息を吐きだすたび泥に沈んでいくように体の自由がきかなくなる。喉が渇いていたが起き上がれそうもない。もどかしさをため息とともに腹から押し出してクロウは目を閉じた。

 とめどなく流れる汗の行方を肌の感覚で追う。体のうちへ染み込んだ歓声と喝采がクロウとは別の生きもののように脈打つ。熱狂、陶酔、賛美、欲情……、ぽっかりと穴のあいた体に狂乱が注がれクロウの血潮になっていく。その過程をひとりきりの楽屋で味わうのが公演後の楽しみだった。

 帰路につく人々のざわめきを遠い潮騒のように聴く。ざらりとした感触が胸の内側を撫でていった。クロウは薄く目をひらいて痛みにも似た苦しさに眉を歪める。どんなに多くの人に求められ賞賛されても満たされない思いがあった。

 髪に挿していた白百合を抜き取って鼻先に押し当てる。花びらはひんやりとして心地よく、青いまま熟したような香りを垂れ流していた。

『ねえクロウ、歌って』

 記憶のなかの彼女に乞われて口をひらく。だが吐息が洩れるばかりで歌にならない。彼女のための歌はもう汚れてしまっていた。かつての無力感がよみがえる。クロウは持っていた白百合をくずかごへ投げつけた。

 いっそこの痛みで死ねたなら歌は救われるだろうか。『クロウ』の姫のようになにもかも忘れてしまえれば……。

 部屋の暗がりが姫の指先のように揺らいでいるように感じて、クロウは慌ててタオルを引っ掴み顔を拭った。化粧をすっかり落としてから見やると、そこにはクロウが脱ぎ散らかした衣装がうずたかく積み重なっているだけだった。

 疲れているのだとため息をついてソファで眠りなおすことにする。すぐにも眠気がふわふわと全身を包んで意識が途切れようとしたそのとき、乱暴なノックがクロウの眠りを妨げた。

「誰だよ……」

 公演後は朝まで入るなと付き人のウィルにも強く言い渡している。他の劇場関係者も知っているので火事でも起こらないかぎり来ることはない。ただ、思い当たる人物がいないわけではなかった。

「おいクロウ、いるか」

 男の声にクロウは空寝を決めこむ。思ったとおり、いまいちばん会いたくない相手だった。

「なんだ真っ暗じゃねえか」

 ぼやきながら男は勝手知ったる様子で壁のランプに火をともした。クロウは体を起こして彼を睨みつける。

「勝手に入るなよ、スネイク」

「そう咬みつくなって。いい話を持ってきたんだ」

 床に散乱した衣装や雑誌を構わず踏みつけながらスネイクはクロウと向かいあって置かれたソファへ腰をおろす。

「きたねえ部屋だな」

「おまえが使ってたときだって、そう大差なかっただろ」

「おれは足の踏み場くらいは作ってたよ」

「どうだか」

 しぶしぶ体を起こしながら、たしかにあのときの惨状はいまよりましだったかもしれないと思い返す。

「で、いい話って」

「ああ」

 スネイクはジャケットから煙草と折りたたんだ紙切れを出し、紙切れのほうをクロウへ投げた。ひらくと新聞の切り抜きだった。これからの演劇と表現の可能性という見出しのインタビュー記事で、演出家としても名高い、帝国演劇場代表の初老の男の写真が大きく載っていた。

「これがなに」

「今夜の公演を観に来てたんだ」

「へえ」

 クロウは指先でつまんだ紙片をちらりと見やって、膝に頬杖をつく。

「おれになにか関係あるの」

「おおありだ」

 スネイクはにやりと唇を歪める。そうするといつも、いくらか若かったころの面影がよぎった。クロウはいつからかその笑顔がすこし苦手だ。

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