午前零時のアリア
望月あん
午前零時のアリア
1.囚われの姫王子(1)
橋の向こうにある大聖堂から午前零時の鐘が鳴る。
それを合図に出入口が閉ざされ明かりが消える。劇場は一瞬で自分の手も見えないほどの暗闇に飲み込まれた。
空席はない。あふれた客は壁際に並んで開演を待っていた。舞台袖から見える客席は真夜中の海のようだった。さざめきは波となって舞台へと打ち寄せた。
深紅の緞帳がゆっくりと巻き上げられていく。雲間から差す月光のように冷たい光が暗闇に線を引く。それはこちら側とあちら側を隔てる明確な境界線だった。
期待と懐疑のこもった拍手が起こる。楽団の指揮者はやわらかな仕草で指先を持ち上げた。空気がわずかに震えるだけの静かな音色が波紋のように広がっていく。
光が落ちる舞台の中央には漆黒の毛皮をまとって歌い手がひとり佇んでいた。濡れたような黒髪を孔雀の羽根と白百合で飾り、ためらいがちな唇には毒々しいほど赤い紅をさし、瑞々しく透ける肌を戒めるように瞼には冴えた藍色を刷いていた。まばたきのたび視線という光がこぼれる。華奢な体を折り曲げて舞うように一礼すると、指に結びつけた色とりどりの繻子がひらひらと揺らめいた。
客席は水を打ったように静まり返っていた。微笑と空虚のあいだを行きつ戻りつする歌い手の眼差しにからめとられ快い猿轡を噛まされた客たちは、毛皮から覗く素肌の胸もとを信じられない思いで見つめる。二年前彗星のようにあらわれた歌い手の正体を知らない者はここにはいない。だが実物を前にすると誰もがその目を疑った。
それは少年だった。青年と呼ぶにはまだ初々しくしなやかな肢体をもつ、十七歳の少年だった。彼は光に満ちた舞台の上でただ一点の翳りになる。なめらかな肌を惜しげもなく晒し、計算づくの恥じらいを浮かべながら挑むような目をして客席を見下ろした。
人々は彼のことを姫王子と呼んだ。
大通りの南側に大小さまざまな劇場が建ち並ぶ一角がある。昼間は路傍や階段で楽団が練習がてら楽器を鳴らし、暗くなって街灯に明かりがともると役者みずからが大きな看板を掲げて客の呼び込みに躍起になった。興行は組合で隔週と定められていることから、ひとつの作品の公演は一週間で終わり、半年後にリバイバル公演をするのが通例となっている。
灰猫歌劇場は劇場街のなかでどちらかといえば小規模な劇場だ。そこへ毎夜、午前零時からはじまる公演のために国中から多くの客が詰めかける。とくに今夜はリバイバル公演の最終日前日ということもあってチケットは即完売となった。
演目は『クロウ』。少年の独白と独唱のみで構成された一時間にも満たない創作歌劇だ。彼のためだけに書かれた、彼だけが魅せる世界がそこにはあった。
少年が短く息を吸う。
わが名はクロウ
天から追放された神の寵姫
心変わりを責めるは詮無きことと
ひとはわたしを笑うだろうが
やさしいあなたが恋しくて
ひとりきりが哀しいあまり
七色の思い出がこぼれ落ち
羽は黒く深く染まってしまった
わが名はクロウ
あなたの空を見あげるしかできない烏
台詞と歌のはざまのような独唱だった。彼の伸びやかな歌声は透明な刃物のように聴く者の胸から背中を貫いて、棘のような痛みを残していく。一度耳にすれば痒みのようにあとをひき、かきむしるような心地でふたたび彼に会いたくなるのだった。
あいしていると叫んだとして
はたして誰が信じてくれよう
あなたへとこの歌が届くことを
祈りながら諦めている
この翼ではもう二度とかえることも叶わない
罪を負うこのからだでは
もう二度とあなたに抱かれることもない
夢ですらきっと
少年は翼のように両腕を広げて喉を反らすと、滲むようなファルセットで歌いはじめた。息を継いで手を打ち鳴らす。少年は劇場の心臓だ。鼓動が響いて、歌えば血潮となる。観客ひとりひとりの意識を奪って喰らいながら少年は暗い輝きを増していった。
劇場という名の獣を刺激しすぎないよう慎重に、弦楽器は少年の歌声に寄り添う。
あなたが触れた髪も
あなたがなぞった足首も
いつしか朽ち果てて
それでも許されないのならば
やがて言の葉をうしなうでしょう
あいしたことも朧になって
わたしはただ歌となり
風に揺られる歌となり
ああ
ほんのすこしの吐息くらいなら
おそばに置いてくださいますか
うずくまった少年は顔をあげて苦しげに腕を伸ばす。ガラス細工のように繊細な歌声を紡ぎながら彼は笑っていた。いまにも張り裂けてしまいそうな、狂気と紙一重の微笑みだった。
嗚咽まじりの歌声を彩るように楽団の音色が厚みを増していく。慟哭の弦楽器、哀愁の鍵盤楽器、怨讐の打楽器が渦になって、劇場をかき混ぜる。決して一流とはいえない灰猫楽団も、彼の舞台のときだけは最高の演奏で客を酔わせた。
小さな劇場の狭苦しい舞台で少年は羽化したての蝶のように歌という鱗粉を撒き散らす。
その姿は息をするのも憚られるほど神々しく、おなじだけ淫靡で背徳的だった。
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