第67話 終――なだれ落ちる銀河

 北側の扉の近くでは、玄章が先ほどと変わらぬ様子で二人を待っていた。宝余には地下での一刻が一日にも感じられた。

 このまま終わって後宮に戻るのかと思いきや、顕錬は玄章を役目から解き放ち、今度は妻だけを連れ、外朝東北の角にある望星台に上がった。


「あ……」

 宝余は思わず声を上げた。秋の夜空は冬ほどではないにせよ冷たく、今日は月も出ぬとあって、幾千もの星が濃紺の幔幕からなだれ落ちて来るかのようだった。地下の圧迫された息苦しさと打って替わって、ここには広さしか存在しない。

「これは…幾つでも星を受け止められそうですね」

 宝余は両の掌を上に返し、星を掬うしぐさをしてくすくすと笑った。


「宝余…」

 顕錬は欄干に身をもたせかけ、傍らの妻を見やった。望星台の松明に照らされた顔は、宝余がかつて見たことが無いほど穏やかなように見えた。


「私は今夜そなたに秘密を見せた。しかし、それはそなたを枷で縛るものではない。そなたを守るためとはいえ、言葉につきせぬほどひどい目にあわせてしまった。再び戒指をはめてくれたとはいえ、いま我が国の秘密を知って重荷に感じ、なお涼に帰る意思があれば、私に止める資格はない。なぜならば、いずれ私が蓆の件について決着をつけるとき、穏便に済むか否かはわからぬからだ。私達の意図はどうであれ、天子の権威の象徴を長きにわたり秘匿していたと見なされれば、私も烏翠も、そしてそなたも無事では済まぬかもしれない。天朝のご威光も薄れてきたとはいえ、諸国をして烏翠に牙をむかせることくらいはなお可能だからな」

「大旗、私は――」

「たしかに私達は両国の経略によって夫婦の誓いを交わした身。だが、宝余があの秘密を見てもここにいるか涼に帰るか、その意思は任せる。帰る場合、涼との関係がこじれるやも知れぬが、たとえ涼王の機嫌を損ねようとも臣僚が何を言い出そうと、それは私が決着をつける問題だ。そして、私はそなたが秘密を守る、信の置ける人間であることも知っている。だが――」


 顕錬の額が宝余の額に近づき、その声は小さくなり、ほとんどささやき声になった。宝余はただ夫の目を見返すばかりであった。

「私は――私自身の考えは、そなたにここに居てほしい。九宝娘の身代わりでも何でもない。私はそなたに、そなたとして傍らに居てもらい、ともに同じものを見、同じものを聞き、そうやって永く春秋しゅんじゅうを渡っていきたいのだ。紫瞳の国君に異国の王妃、ともに運命を全うすることはできないと言われた私達でも、国を傾けるかもしれぬ運命の私達でも、誠をもっておのが務めを果たし続けていれば――古き伝えや予言をも覆すこともできよう。運命とは、畢竟そういうものなのではないか?」

「顕錬さま」

「そなたが私の側にいること、これはわが身に余る無理な望み、虫のよい願いにすぎないであろうか?あの時に守り切れなかった償いを、生涯をかけてさせてもらえぬか?」

「……」

「宝余?」

 宝余はしばらく答えず相手をも見ず、ただ天を仰ぐばかりであった。おそらく、このひとが何かを望み、しかもそれを余人に打ち明けることなど、今までそうはなかっただろうし、これからもないだろう。何ということか!一国の王たる彼が、妻にただそこに居てほしい、ともに生きて欲しいというささやかな望みを、無理な願いかと心配しているなどと!


 返事をするべき者と返事を待つ者、二人の間にぎこちない沈黙が流れた。妻の口からゆっくりと言葉が漏れ、その口調は段々と早くなっていった。

「…一体この方は、何ということをおっしゃるのでしょうね。輿入れして間もない私を僻地にさすらうがままにさせ、ようやく帰って戒指をお戻しくださったかと思うと、今度は御蓆まで見せ、それでいまさら涼に帰りたければ帰っても良い、だなんて。私の気持ちはもうとうに決まっておりますのに、何もかもご存じでいらっしゃるくせにその申されよう、いったいご自分を何だと思われているのです?何て残酷で救いようのないお方。ええ、私はずっとここにおりますとも!」

 彼女はわっと泣き出し、涙はあとからあとから溢れて止まらなくなった。


 ――遠かった。ここまで、本当に遠かった。

 遠く涼から嫁ぎ、殺されかけた。あの夜、いきなり臨州に放り出された。行き場を失って班に入り、諸州諸鎮を流浪した。やっと戻ってきた瑞慶府で命を失いそうになり、その後には忠賢達との別れも待っていた。そしていま、私はここにいる――。


 顕錬は無言で腕を差し伸べた。宝余は彼の胸に顔を押し付け、顕錬は彼女の額に頬を寄せ、しばらくの間二人はそうしていた。それから宝余は我に帰るとぱっと身を離し、涙を手で払い乱れた息を整えた。彼女が夜空を仰ぎ見、再び王と眼を合わせたとき、顕錬はただ黙って妻を見守っていた。

 宝余は二歩下がって優雅に膝を折り、旗妃として王に拝礼を行った。

「――私、涼の第十公主である姫玲すなわち宝余は、烏翠に納妃されましたからには、この寿命の尽きる日まで王の傍らにおりましょう」

 二人はどちらが先ということもなく再び歩みより、相手を強く抱きしめた。


「どうか御世続くかぎり、お側に置いてくださいませ。私に背負える重荷であれば、私にも」

「――今日はじめて、婚儀を挙げた気がする」


 ふふ、と王は笑った。宝余もつられて笑ったが、ふとあることに気がついた。

「あなたは、さきほど初めて私を名で呼んでくださいましたね」

「そなたも、だ。私の諱を――」

 互いが互いの言葉に顔をほころばせ、つと顕錬の顔が宝余のそれに近づいたかと思うと、二人の唇は重ねあわされていた。

 夫の手が妻の髪にかかり、するりと簪を抜き取る。わがねられていた髪がほどけ、折からの夜風に煽られて扇形に広がっていった。

 それから二人の間に起こったことは、ただ星達だけが見ていたのである――。


                        【本編:了 次話に付録SS】

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