第66話 王の誓い

 思いがけぬ言葉に、宝余はまた口が利けなくなった。そんな彼女の様子に顕錬は笑みを浮かべた。


「そなたはこれらを信じるか?」

 宝余は一瞬言葉につまった。

「…私にはわかりません」


「開国の君の御言葉と言われているが、本当はいつ誰が言ったとも判らぬ言葉だ。思うに、初めはかりそめに、あるいは戯れに漏らされた言葉に過ぎなかったのだろう。しかし年月を経るうち、たとえかりそめの言葉でもそれは真実とすり替わり、真実は人の届かぬ闇のなかに隠れていってしまう。いつの間にかこうしたことばは力を得て、人々の心に入り込んで支配するようになるのだ。母上と兄上のように」


 顕錬は力なく笑った。宝余はそのときの情景をほぼ正確に推測することができた。きっと太妃は古く、しかし頼りにならぬ言葉のみを盾として、先王に教え込んだのだ。そこから彼の狂気は始まっていったのだ。


 たかが辺境の小国の王で終わらず、野心を持ちなさい、そしていずれは――。


「私はむろんこの御蓆のことなど、王になるまで知らなかった。だが、兄上のお考えは手に取るようにわかった。ゆえに、天朝への野心を隠さぬ兄上をお諫めしたのだが、その結果がこの背中の傷だ。それ以前にも、兄からは度々折檻を受けてはいたが、あのときは本当に殺されるかと思った…」

 宝余は胸を詰まらせながら、王の告白に耳を傾けていた。

「兄はその野望を果たそうとやっきになったが、忠臣や王族があまた粛清され、民は重税にあえぎ、地方では反乱が起き、ついには他国の介入を受けるまでになった。兄の御世はのちのち史書にはきっとこう書かれるだろう。苛斂かれんと粛清の御世であったと」

 王は平静を装い、床に置かれた明りを手にとった。宝余は夫を痛ましそうに見守っていたが、やがて優しい口調で尋ねた。

「ではあなたは?あなたは御蓆を見てどう考えましたか?お信じになっていらっしゃる?」

「私?――そうだな」

 王は深々と溜息をついた。


「兄が駆られた誘惑もわからないでもない。きっと代々の王もそうした瞬間はあっただろう。開闢より時ははるかに流れさり、いまや天子の血脈といえども――恐れ多いことながら、それは既に退廃と乱脈によって濁り、かえって我ら烏翠の血のほうが濃くなり勝っているからな。だがそれが何になる?しょせん血は血でしかないのだ。たとえ御蓆を奉じて京師に上ったところで、とうてい諸王の信任は得られまい。母と兄の見た夢は見果てぬ夢だ。もはや諸国は天子の権威を第一にとは考えておらぬだろう。遠い将来、古い権威の通用しない新たな世の中が来るかもしれない」

 そこで言葉をいったん切ると、顕錬は眼の光を強くした。

「私は即位してこの御蓆を見たときに、二つのことを誓った。まず、烏翠の王として王道を全うすること。そして、何があろうと、御蓆のことは私の代で必ず決着をつけること。たとえ初めは御祖から賜った有難きものであったとしても、いまとなっては災厄の火種ともなりかねぬものを抱えているわけにはいかない。どのように決着するかはまだ見当もつかないが、そのときがきたら、私がとるべき道は決して兄や母の望んだ道ではないと思う」

「大旗…」

「厄介なものだな、いまさらあの御蓆を華へ返上もできぬし。だが、いっそ焼いてしまえば事は簡単に済むのに、それができないのはやはり私も天子と同じ血を引く故に、どこか囚われているからかもしれんな」

 宝余はそこが不思議なのだ、と思った。

「でも、焼かぬにしても、なぜ天朝に返上をできぬのですか?」

「彼等が偽りの玉座に五百年もついていたと認めるとでも思うのか?」

 彼女は納得できず、夫に食い下がった。

「――どうしてそう決め付けておしまいになるのですか。たとえ御蓆でなくとも玉座は玉座、何も偽りの天子が御位についていたわけではないでしょう。それだけで返上できない、というのはおかしいと思います」

 宝余の疑問に対し、相手はただ首を振ったのみだった。

「そなたにはわかっていない。彼等のものの考え方が」


――ええ、私にはわかりません、王よ。でも万事をしろしめす天子さま、つまり華の権威を支えてきたものが、この地にある。そして、益精鎮の老人の言葉。『あなたは天下の命運を握り、多くの者から最も重い敬礼を受けることになる』――これはいったいどういうことだろう?何だか恐ろしい、考えてはいけないことを、いま私は考えているようだけど…。

 無言になった妻を見て、顕錬は口調を変えて彼女を片腕で引き寄せた。


「ともかく、私はそなたにこれを見せた。私の知る限り、異国の正妃はいままで四人出たが、御蓆を見たのはそなたが初めてだ」

「――え?」


 宝余は夫の顔をまじまじと見つめたが、疑問の先を口にせぬまま、顕錬について梯子をゆっくりと上がり、殿外に出た。宝余ははじめて、地下の空気が淀みもしていなかったことに気がつき、慄然とした。それと同時に、彼女はいまや、ふたつの感情の間で揺れ動いていた。夫が自分をそれほどまで信用してくれたことを知った喜びが半分、のこりの半分は、自分がひどく重いもの――分不相応に大きい秘め事を知ってしまったという、厳粛な気持ち。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る