第65話 二つの玉座
実のところ、数日前から顕錬は何かについて深く思い悩んでいるようだった。だが、太妃への拝謁をきっかけにして決心がついたと見え、同日の深更、顕錬は宝余に火事装束に着替えるよう申しつけた。宝余が入宮時に婚礼衣装に先立って着た、あの衣装である。
「どちらにお連れくださいますの?」
顕錬はそれには答えず、自ら明りを持って先頭に立った。宝余がいぶかしく思ったのは、まず人払いをしているのか途中で誰にも会わなかったこと、そして後宮を抜けて外朝に至り、ちょうど堯政殿の北側まで来たところで王が立ち止まり、そのまま何かを待っていることだった。
しばらくすると、これも明りを持った人影が堯政殿のほうからやって来るのが見えた。宝余はその上背のある、いかつい姿に見覚えがあった。
「玄章――」
男は明かりを持ったまま跪く。顕錬は彼を一行に加え、再び自分が先頭に立って堯政殿のほうに向かって歩いていく。
堯政殿の北側の扉は少し開いており、顕錬と宝余がそっと身を滑り込ませると、外で待機する玄章によってすぐに閉められた。それから入ったところの小部屋を一つ過ぎ、二人は玉座の裏に出た。ここは宝余にも馴染みがあったが、ただ一つ異なるところは、今夜は段通が取り払われ、床の下に階段が見えていたことだった。
宝余は、さきほど夫が火事装束を着るよう命じた理由を悟った。顕錬は自分のもつ明りのほかに、階段のわきの小さな松明にも火をつけ、その二つを手にして階段を降り、またすぐに上がってきた。その木の階段――というより半ば梯子――は急で、宝余はほとんど顕錬に抱き下ろされる形で降りた。顕錬は妻に明りを一つ渡した。
「……よく見るがよい」
地下の薄明かりに眼がなれるまでやや時間がかかったが、自分が何を見ているかがわかったとたん、宝余は衝撃で口もきけずに立ち尽くしていた。
そこは石作りの、十丈四方にも満たぬ部屋であった。白漆喰で塗られた壁面は二つの明りに照らされ、岩彩鮮やかに絢爛たる壁画を映し出していた。絵の題材は、烏翠開国の君から始まり、烏神と烏翠の公主の婚姻に終わる、古い伝説であった。
さらに奇妙なことに、部屋の中央には高さ三尺ほどの、三層の壇が築かれており、おのおの壇の側面には蓮の花、海と山、龍と鳳凰、大烏と兎といった、烏翠ではなく天子さまのおわす華朝の神話や人間達を描いた画像石がはめ込まれている。
明りを翳しながらその周囲をめぐると、画像石のなかの人物は海からやって来て蓬莱山を見出し、神々とともに空を飛び、国を開き、獣を狩り田を耕し、妻を娶り親の死を送り、また宴会に興じているところだった。そして赤と緑の蔓草紋様に彩られた壇の最上階には、なぜか幅七尺、奥行き四尺ほどの
「……驚いたか?」
背後から王が話しかけた。宝余は頷くのも忘れ、かすれた声でただ一言を発した。
「どうして――」
「ここは玉座の真下にあたる。より正確にいえば、あの蓆の真上に我が玉座がある」
王は蓆を指差し、
「あれが何だかわかるだろう?」
と問うた。宝余には察しがついたが、それをにわかに信じることもできかねた。妻が答えないのを見て、顕錬は妻に手を差し伸べ、ともに壇の正面につけられた階段を登った。四、五段上がったところで立ち止まり、二人は灯りをかざし、あらためて蓆を見下ろした。蓆は青々とした色を保ち、まるで昨日織り上げられたばかりのようだった。縁は紺地に金で烏を描いた錦に飾られていたが、それもまた少しも風化せず、糸のほつれ一つ見当たらない。
「――開国の君が
「……この蓆がそれだと?」
顕錬の口調は老いた語り部のようであり、その目はまるで宝余がそこに居ないかのように、壁画を透かして遠くを見ていた。
「はるか昔、大海から龍門を越えておいでになり、華をひらき給うた
宝余は無言のまま、きつく握られた手は汗で湿っていた。妻のただならぬ様子に気づかず、王はくすりと笑った。
「信じぬのならばそれでもよい。私ももとは怪力乱神の類は信じぬほうだ。――だが、王となって初めてこれを見せられたとき、そうしたこともあり得ると考えを改めたのだ。聞くところによると、この蓆はこの姿のまま、朽ちることがなく五百年の間ここにあるそうだから」
宝余はふっと呪縛からとけ、夫を振り返った。
「五百年も?」
顕錬は頷いた。
「いまも天朝の天宮は
絢爛たる玉座――。宝余は心のなかでその言葉を反芻した。
孔雀の天蓋に
象牙の椅子に珊瑚の脚台
そして、宝余はこの蓆に似たものを以前に見た覚えがあった。ある老人がいつも肩に担いでいた細長い荷物の中身――。だが、気のせいだと彼女は頭を振って打ち消した。
「何故ですか?華にあるべき御蓆が堯政殿の地下に置かれる。それは御祖が密かに賜われたものだからよいとしても、わざわざその真上に烏翠の玉座がしつらえられているのですか?それは、つまり――」
彼女は口ごもったが、顕錬はその言葉の続きを正確に言って見せた。
「…我等に叛意があってのことだと?」
身の震えるような言葉をさらりと
「このことを知っているのは、代々の王と宰領、そして女官長のみだ。王は即位したその夜、宰領と女官長に案内されて、初めて御蓆を見せられる。ただ重要なのは、このとき必ず見せるだけなのだ。見せる者は、余計なことは何ひとつ言ってはならない。見せられた者は、この御蓆がここに置かれた意味と自分が見せられた意味とをただ自分で考えるしかない。……不思議とは思わないか?」
王は振り返って真っ直ぐに宝余を見た。
「このことは今まで外に漏れた試しがない。どんなに暗愚な王や悪辣な宰領がいたとしても、何故かこの秘密だけは世々守られてきたのだ。それは何故なのか?単に国に対する忠誠なのか、それとも本能的に、それだけは絶対不犯のものとして、我等が血脈にはじめから刷り込まれているのか。私にはわからぬ。だが、この秘密が天朝にもし伝われば――我が国はどうなるだろうか?御蓆を返上して済むだろうか、あるいは蓆一枚を口実として滅ぼされるだろうか?」
宝余は口の中がからからになっていた。
「あなたは先ほど、御蓆を見るのは、代々の王と宰領、女官長のみと。でも正妃については何もおっしゃっていませんでしたね」
「正妃については、王自らが判断して見せるか否かを決めるのだ。だから、知っていた王妃とそうでない者がいる。たとえば、私の祖母の明徳太妃はご存じだった。その一代前の、純聖王妃はご存じなかった。そして…」
顕錬は辛そうな表情を妻に悟られまいとしてか、わずかに顔を背けた。
「――母上もまた御蓆のことをご存じだった。太妃は兄上が即位された当初、掟を破って、ただお一人で兄上をここにご案内なされた。また無言の禁を犯し、兄上に縷々吹き込まれたのだ。『望みを持て』、と」
「望み?」
「――我が国には、開国の君が遺したとされる、二つの古い言葉が伝わっている。一つはそなたの婚礼時に謡言として復活し、人口に膾炙しているゆえ、そなたも知っているはずだ」
宝余は頷き、諳んじてみせた。
「『白烏が死ぬとき、紫瞳の国君が立つとき、国君の剣が折れるとき、そして異国の女が納妃されるとき。この四つが揃うとき、烏翠は滅びに瀕するだろう』」
「それだけではない、実は短いがより古い言葉があるのだ。御蓆を知る者にのみ伝えられる言葉が」
王は大きく息を継いだ。
「『いずれ我が山河より天子立つべし』と」
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