第64話 香のくゆり

 御簾の向こうには何も見えないが、女官達が十人ほど御前に居流れている。彼女達はみな仮面のような表情でこちらを見ていた。


 顕錬と宝余はゆっくりと御簾の前へ進み、平伏して身を起こした。慈聖太妃の焚く甘みの強い香の煙が、御簾のうちから漏れて二人を取り巻く。その静かなくゆりのうちには、香をたく人の憎悪と憤怒が隠されていることを、王も王妃も既に知っていた。王妃が瑞慶宮に帰還してより、慈聖太妃が夫妻の拝謁に応じるまで、実に一月余りを要したのである。


「…太妃さま、あなたの息子が朝のご挨拶を申し上げます。実は我が妃の体調が優れず、太妃に対する起居もおろそかになっておりました。本日はともに御前に参り、太妃の聖体の無事を問いたく存じますれば」

 顕錬のはっきりした声があたりに響いた。「我が妃」の一言を特に語気強く発音したことで、宝余を除くその場の者は一様に身を硬くした。

 顕錬が隣をちらりと見た。次は宝余の番だった。


「…臣妾わたくし、王の仰せのごとく、嫁した者としての努めを長らく果たせずにおり、いたたまれず恥ずかしい思いでおります。ただ、おかげをもちましてこうして起き上がれるまでになりましたからには、あらためて太妃のご健康を確かめ、あわせて妃としての努めを果たす覚悟をお伝えいたしたく、ここに参上いたしました」


 彼女は帳に刺繍された「青鷺の紋章」を視界の隅に捕らえつつ、しっかりとした口調で空虚な謝辞を述べた。


 ――この殿はこんなに小さかったかしら。


 宝余は首をかしげた。初めてこの殿に入ったとき、ただただ恐ろしく心細かったばかりなのに、今は何とも思わない。


 御簾の向こうは沈黙を守ったきりである。だが、宝余には太妃の様子が手に取るようにわかった。きっと眉尻を吊り上げ、唇を震わせ、手に持つ扇をひしぐほどに握り締めていることだろう。

 だが宝余も後には退けなかった。自分はこの瑞慶宮に戻ってきたのだ。王妃として戻ってきたのだ。であるからには、このまま彼女達の自由にはさせない。自分の身は自分で守らなければならない。わが身を守ることは、決して自分可愛さのためではない。そうすることによって王を守り、王宮の者を守り、瑞慶府の民を守り、ひいては烏翠の民全てを守ることになるのだから。


「旗妃もこう申していることですし、太妃がお認めになろうとなるまいと、もはや正妃として冊立も済ませている身、しかも彼女にかけられた疑いは晴れましたので、これ以上離宮にとどめ置く必要もありません。したがって、わが妃を坤寧殿に復します。太妃さまにおかれましては、息子とその嫁、いや、王とその妃に変わらぬ慈しみを賜わられますよう」


 王の言葉が、御簾へと吸い込まれて消えた。それに呼応するかのように御簾がするすると捲き上がり、太妃の姿が露わになった。若き夫妻はそろって平伏の姿勢をとる。

 長い時間が経ち、宝余が夫の動きにあわせ水中で息継ぎをするように顔を上げると、太妃の様子は、彼女の予想とほぼ異なるところがなかった。かつて「瑞慶府の宝珠」とまで謳われたこの女性は、美貌を保ちつつも、その面を醜悪なものに蹂躙されるがままにしている。身にまとった、暗い赤色の衣が、彼女の怒りをそっくり表しているかのようだった。


「――異国の女をせっかく冬淋宮へ追い払ったというのに、廃妃にするどころか呼び戻したとな!そなたはわが国を滅ぼすつもりか」


 雷のごとき声があたりを裂いて鳴り響いたが、王と王妃の視線は小揺るぎもしなかった。そして、太妃に答えたのは王のほうだった。


「もとより妻の身柄を冬淋宮へ遷したのは、彼女へかけられた疑惑が晴れるまでの暫定的な措置に過ぎません。それはこちらにも伝達されたはず。それに廃妃云々とは、私は一言も口にした覚えはありませぬ。すでに彼女の潔白が明らかになった今、すべてを旧に復し、彼女を宝座に迎えるのは当然のことではありませんか?」

「…よう言うたわ。そなたの考えはわかっている。次には私を冬淋宮へ放り込むのであろう?」

 赤い唇を覆った扇の陰から、くつくつと笑いが漏れる。それを目の当たりにした息子の目線が険しくなる。


「いい加減になさらぬと、その戯言が戯言ですまなくなりますよ。太妃とはいえ、万一行いにご身分にふさわしからぬ言動が認められた場合、たとえ親子であっても容赦はしません。私は、烏翠の秩序と安寧のためであれば、親不孝のそしりなど恐れはしませんから。また、わが妃に対する侮蔑は私に対する侮蔑ともなります。それが何を意味するかはおわかりですね?今申し上げたこと、よくよく覚えておかれるように――」

「顕錬!」

 もはや怒声は悲鳴に近かった。宝余はさすがに顔色を変える。いまや太妃は立ち上がり、こちらの二人を高みから睨みつけていた。彼女がいらだたしげに頭を振ると、いく本もの黄金の簪がちらちらと音を立てる。


「そなたは今自分で何を申したかわかっているのか?烏翠の国君の不孝ぶりを、あまねく天下に喧伝して汚名を蒙るつもりか?たかだか我等が朝廷を泳ぎ回る小魚をいくたりか排除したくらいで、何を勘違いしているのだ?しかもこの母に無礼千万の言い草、先王がご長命であられたら、決して私もこのように情けなく、恥ずかしい目に合わされずに済んだだろうに。ああ、いっそお前を殺して、いずれの山房にでも王位をくれてやればよかったものを。それこそ我が生涯の最大の過ちじゃ、この紫の化け物!」


 宝余はほとんど蒼白になっていたが、顕錬は太妃のこのような状態には慣れているのか、しごく落ち着いたものだった。

「何とでもおっしゃられるがよい、たとえ紫の瞳を有していても私はこの国の王であり、あなたの息子には変わりはないのですから」

 最後の一節こそ、太妃がもっとも忌み嫌うものであったらしい。そして、さらに興奮した太妃がまだ何事かをわめいているのを尻目に、顕錬は宝余をうながして最後の礼をすると、きびすをかえして部屋を出た。


「…よろしかったのですか?」


 宝余が恐る恐る夫に問うたとき、彼等は後苑の池のほとりにいた。

 太妃の殿を辞した後でも、顕錬はまっすぐ自分の殿に戻ろうとはせず、宝余を誘って二人で後苑に向かったのである。そこは秋の豊穣を思わせる景色で、池は鳥達が群れ集い、すこしく賑やかな眺めを見せていた。


 二人は無言で池のほとりを歩き続け、半周したところで宝余の問いになったわけである。

 聞かれた顕錬はため息をつき、池の中の島へと視線を投げた。宝余は夫の寂しげな表情に胸をつかれた。無理もない、たとえ憎しみと誤解の果てにこうなったとはいえ、彼が彼女の息子であることには変わりはないのだ。そう、ついさっき王自身が太妃に思い知らせたように。


「いっそのこと、最後まで彼等を庇いとおしてくだされば、私も改めて考えることがあったのに。言うに事欠いて『小魚』とはな。彼らが何をしたにせよ、つい昨日まで、股肱としてご自身でぞんぶんにお使いになられていた臣下達ではないか。かつて兄上にも仕えた官人達ではないか。それなのに、いざことが破れたとたん、彼等を塵芥のようにお見捨てになる。あれが、本当にわが母、わが太妃なのか――」


「王…」

「そなたには信じられぬやもしれぬが、あれでも――ああおなりになっても、かつてはそのお顔だけでなくお心も美しく、優しい母であったのだ」

 寂しそうな笑みが、彼の面を横切った。

「――」

 宝余は無言で頷いた。かつての太妃の容貌については、宝余もすぐに推し量ることができた。かつて美貌を誇ったひと、かの英明な文王の心をも迷わせた女性。外見だけではなく、心映えもかつては息子の言うとおりだったのだろう。もし彼女のいまの顔から憎しみと懐疑の表情を差し引くことができたのなら――。でもああまで張り付いた憎悪は凝り固まり、容易には肌から引き剥がせそうもない。

 大旗は宝余の手をそっと握り、水面をみつめたまま呟いた。その瞳の紫色は、これまでになく強く揺らめいている。

「だが私はこの眼には負けるまい。民のため国のために力を尽くそう。そしていつか、『紫瞳の国君』すなわち明君を指していうほどになってみせよう」

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