第63話 土くれから来たりし者

 王と王妃は還宮せず、そのまま瑞慶府治で仮眠を取った。そして日がすっかり高くなった頃、王は宝余を連れ、検分のため曹の邸に戻った。

 道々、ともに馬に揺られながら二人は話し込んでいた。追放前の気まずさや沈黙が嘘のように、二人の話は途切れることがなかった。


「…それから魏兆ですけれども、私が涼から持参した蔵書と、西書房の蔵書から善本ぜんぽんを選んで贈ろうかと思います。累代の書籍を喪ってしまったのも、もとはといえば私が原因ですし」

「ああ、そのことなら弦朗君も同じことを申していた。私の東書房からも下賜しよう…それにしても昨夜は、随分待たされたな。そなたはずっと班の者達と話しこんでいて、なかなか別れようともしないのだから」

「それはそうですよ、ずっと生活と苦楽をともにしてきた人達でしたから」

 宝余は笑ったが、別れの情景が瞼に浮かび、我知らず涙がこぼれ出た。彼女は人を遠ざけてもらった状態で、心ゆくまで班の皆と別れを交わすことができたのである。


 そのときは忠賢が不愛想さをかなり和らげて宝余に別れを叙したり、愛姐は彼女にひしと抱きついて号泣したりした。特に、

「そなたはもう、再びは椀の酒を存分に飲めぬ身分になったのだな。私も家族を持てぬ身となったが、叶うことなら―――を妻に迎え、一生涯ひとりの芸人として生きたかった。だが、これも運命だ。そなたはそなたの、私は私のなすべきことをなすほかはない」

と、囁くように告げられた忠賢の言葉が、宝余の心にいたく染みた。他の者に聴き取れぬほどの小声は、「そなたのような者」と聞こえた気がしたからだった。

 思い返すに、旅の暮らしは厳しく、辛いことも多々あったが、班の羽交いのもとで自分は瑞慶府に帰ってこられたのだ。だから、どんなに彼等と離れがたかったか――。

 ゆえに、最後は王妃としての礼を受けることを拒み、あくまで班の人間として、二代の大班主以下全ての班員に拝跪するとともに、旅の無事を祈った宝余である。

「でも大旗、彼等へのお心遣いありがとうございます」

 馬上で頭を下げた宝余に、顕錬は「うむ…」とやや照れたように頷いた。彼は班の鑑札に、以後この班が烏翠の国内を回る際には、永久に通行税の免除を許す旨を裏書して取らせたのである。


 別れの穏やかな悲しみは、しかし曹国良の邸址を見たことで吹き飛んでしまった。それほどその場所は、惨劇の落とし子そのものだった。

 すでに火は鎮まったとはいえ、いく筋もの黒煙が天に向かってまっすぐ昇り、異臭が鼻をついた。曹の屋敷だけではなく、東西およそ二軒ずつが類焼したという。それらの家で死者が出なかったことだけが救いであった。

 曹家の敷地内では、あちこちで瑞慶府の官吏が作業に追われていたが、吏の幾人かはなお残る財宝を目当てにあちこち掘り返そうとし、官が鞭でそれを追い払っていた。だが、そんな官も吏も、馬上の大旗と、それに続く旗妃の姿を目にするやいなや、あわててかしこまって両手を垂れた。


 遺体はすべて確認のうえ運び出したというが、その他は全く手がつけられていない。馬から下りた宝余は、呆然と立ちすくみ、辺りを見回すばかりであった。あれほどの屋敷が一夜にして灰となったことが、宝余にはほとんど信じられなかった。


「曹国良は見つかりましたか」

 宝余が顕錬に尋ねたところ、相手はきびしい顔で頷いた。

「すでに見分けがつかないほどになっていたが、腰につけていた帯玉と官印でかろうじて本人だとわかった。たったいま、遺骸を運んでいったというが」

 それを聞き、宝余は目を瞑った。やはり、この屋敷と運命をともにしたのか――。

「彼の臨終の場所はどこだろう」

 夫の、なかば独り言のようなつぶやきに対し、宝余はのろのろと答えた。

「…私は知っています」

 何とかあたりをつけ、黒焦げの材木をよけながら、二人は書房のあった場所に向かう。

 ひときわ大きな材木の山の前で宝余は立ち止まった。おびただしい建材の残骸のほか、紫檀の家具のなれの果て、絹布の燃え残り、つややかな白磁や青磁の破片、そんなもので辺りは埋まっていた。

 王がゆっくりと周囲を歩き、宝余はそれを見守っていた。しばらくすると、急に顕錬はかがみこみ、何かを拾い上げてこちらを向いた。


「…あ」

 夫の手の中にあったのは、あの俑だった。身の下半分はすでに壊れて失せていたが、踊る女の像であることは間違いなかった。

 顕錬は宝余のもとに戻ってきて、よく見えるように差出した。宝余は素直に受け取る。

「俑など触れたがらないかと思ったのに」

 王の口調には驚きが含まれていたが、宝余はふっと笑った。

「私はすでにこれと知己なのですから……これは曹大人の遺愛の品です」

 俑に温かな視線を投げ、ざらざらした表面を右手で撫でてやると、土の女人はくすぐったがっているようだった。

「…そうか。そうと知った以上は無碍にもできぬな。さてどうすればよいか?」

 言葉の語尾こそ疑問の色が混じっていたが、その実、顕錬はすでに取るべき策を知っていた。――そして宝余もまた。


「その前に、王はいかがお考えですか?きわめて罪の重い者は、刑の前に死してもなお刑が加えられます。曹の場合はどうなるのですか?埋葬が許されるのか否かは――」

 あまりに重い罪であれば、死後の斬首も行われうる。妻の問いに対し、夫はすこしのあいだ答えなかった。彼は俑をもう一度ちらりと見た。

「…彼の遺体は、曹家の墓域に埋葬をさせることにする。朝議で反対を受けるやもしれぬが、これだけは通したい」

 その口調はきっぱりしたもので、宝余は一礼して賛意に代えた。

「先ほど、王に侍して瑞慶府の報告を聞いておりましたが、曹家の祖は華人だそうですね。ですから、火葬を行う烏翠の者とは異なり、死者は土に埋葬するでしょう。ですから、もし許されるのであれば、この伶人達を曹の亡骸と一緒に埋め、冥土への道を案内させましょう。もう一体あったはずなので、それも探してから――土くれより来たりしものは土くれに帰すべきです」

 手の中に納まっている土の塊は守られてぬくぬくと、寝息を立てているように感じられた。


 ――主人を守り、永久の眠りについていたあの伶人達。闇から呼び起こされ、新たな主人のそばに侍っていたのだ。昨日まで、あの傲慢で寂しい一人の老人のそばに。王をしのぐほどの権勢を有し、追従する者も数え切れず、有り余る富に囲まれていただろうに、彼が最期に心を傾けたのは、家族でもなく職位でも富でもなく、この穏やかな笑みを浮かべた、たった二つの土の塊だったとは。


 宝余は袖口から絹布をひきだし、この土くれをそっと包んだ。

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