付録
第68話 州知事さまの驚愕
烏翠の都である
市には人々が群がり、物売りと客の声が飛び交い、食料や衣類に手を伸ばし、やれ
その活気に満ちた空間を南から北にさいさい横切るのは、旗を先頭にし、貴人の乗る籠を中央にしたものものしい行列で、どの行列の旗も「
つまり、これらは地方官たちの行列であり、元日に
「ふう……」
瑞慶宮の一角でため息を漏らしたのは、臨州知事の
知事たちはみな出された茶を喫しながら
そこへ一人の侍従が現れ、戸口で臨州知事を呼んだ。それまでいささかざわついていた室内は、水を打ったように静まり返り、視線が一点に集中する。
なぜ自分一人が呼び出しを――?方英慈は疑問を抱きながらも、顔色も変えず同僚達に一礼し、侍従の後に従い回廊に出た。彼の背後では一時の静寂が破れ、また蜜蜂の羽音のような人の話し声が沸いてきた。
――何か失態でも犯して弾劾でもされたのであろうか、それとも王より譴責でも蒙るのであろうか?
方にはとんと見当もつかない。しかも、侍従が歩いていく先は方の予想とは反対、つまり王の居殿とは異なる方向であった。方の見慣れない廊や殿を次々と通りすぎていく。はて、と首をかしげて宮中の配置図を頭に思い浮かべた彼は、自分が秘苑へ導かれていることに気づいて驚きを禁じえなかった。
内朝に隣接するあの場所は、王族もしくは特に許された高官以外の出入りを阻んでいる。知事とはいえ、一介の地方官の出入りなどはめったにないことだった。
――これは一体何事か。
ますますいぶかりながらも、そこは「謹厳居士」の異名をとる方英慈らしく、「いかようなことになろうとも」と心中でつぶやいた。そして、背筋をぴんと伸ばして秘苑の境界に位置する
今は冬とて庭園には緑もなく、外気は刺すように冷たく、雲もひくく垂れ込めていた。彼は空気の臭いを嗅ぎ、まもなく雪が降るであろうことを知った。
寒々とした景色のなかに、半ば凍りついた池があった。先導する侍従は築山を回って池に近づいていく。
――おや。
方は視界の隅に、この枯れた庭園にあってほぼ唯一色を発するものを捉えた。
それは人間で、しかも女性だった。彼女は自分に背を向け、つまり池に顔を向けて立っていた。頭は既婚の形に結い、銀色の簪をただ一本挿す。衣服はといえば、灰色の毛皮の縁取りがされたごく薄い桃色の上着を着込み、裳の色はさらに薄く、ほとんど純白に近い。
彼女は後宮でも高位の女性らしく、脇には女官が六人ほど侍っていた。
「方知州、こちらへ」
老いた女官の、威厳をもった声が響き渡った。その吐く息は白い。方は立ち上がると俯いたまま数歩進み、女性の裳裾が視界に入る距離で再び跪いた。彼はますますわからなくなった。
――この苑にいて、しかも私を呼び出せるほどの方というのであれば、王族なのだろうか。それにしても、私の存じ上げない方のようだが。
「方知州、寒さのなかに呼び出したこと、詫びを申します。立ち上がって面を上げるよう」
頭の上から声が降ってきた。張りのある、しかし柔らかな響きをもつ声音。方は早く相手の正体を知りたくあったが、はやる気持ちを押し隠し、命じられるままゆっくりと立ち上がり、ついで顔を相手に向けた。
「……」
卵形の輪郭、茶色がかった大きな両の瞳、微笑みを浮かべた唇。はじめてみる女性の顔だった。歳は若い。二十にもならぬだろう。
――いや、果たして初めてか?
疑念は晴れるどころかまた別の疑念がわいてきて、無礼も省みず相手を見つめてしまった彼は、あることに気づいた瞬間、全身の血が逆流した。
――そうだ、確かに初めてではない。この方は!
さらに追い討ちをかけるように女官の声が聞こえてきた。
「旗妃にあらせられる」
王妃の面前でありながら、方英慈は思わず膝が崩れ落ちた。
「あなたは州庭で、あの鼎に……」
もはやそこには「謹厳な方知事さま」の姿はなく、彼はただ口をぱくぱくさせながら数語を搾り出すのがやっとだった。
「ええ、懐かしいですね。あの鼎に、もう一度手をかけたいものです。あれにかけて、私の言ったことは真実だったのですよ」
またも柔らかい声が上から降ってくる。かつて
「……どうかお許しを」
彼の声は蚊の鳴くがごときものだった。一方、王妃は笑みを絶やさぬまま首を横に振った。
「どうか誤解のなきように、あなたをここへ呼んだのは罰するためではありません。それに、私もあの時はただひたすら必死だったのですが、あなたに私だとわかれというのもまた無理な話でしたから……実は、大旗――国君のお許しを得て、あなたをここに呼んだ理由は、私から頼みがひとつあるからです」
王妃は女官に目配せする。それを受け、女官は
「私はあの時、州庁にほど近い
そして、相手にも見えるように、銀の細い装飾品を差し出した。柄に近いところには青い紙が結ばれている。
王妃はその者について自分が知るかぎりのことを相手に説明した。すなわち、親切にしてもらった飾り職人から簪を譲られたこと。職人は簪を持たせた娘が非道な仕打ちを受けて縊死したために、不正を晴らす一念で裁きを求め、州庁に訴え出ようとしていること――。
そして、
「あの方はどんなになっても手放さずにきたのに、たった半日しかともに居なかった私に、この簪を贈ってくれました。これは私の道中の守り神となり、友でありました。ですが私が目的を果たした今、娘の分身は父親のもとへ帰してあげるべきだ――私はそう思ったのです。知州よ、私が州庁を去ってから直訴の者に会いましたか」
「ええ、いくたりかは」
方はその男のことを思い出した。必死な顔で方の駕篭にすがり付き、くしゃくしゃになった訴状を自分の懐につき込もうとした男、たしか飾り職人と名乗った――。
「恐れながら、まだ未決となっていますが、私はたしかに彼の訴状を受け取りました」
「そうですか。では、彼の居所や名前も調べられますね」
王妃はほっとした表情を見せた。
「むろん、訴えをどう裁くかは私の口出しするところではありません。それは私の分を越えたことです。――
差し出された州知事の両手に、宝余はそっとそれを置いた。
「これをあなたの手から、あの人に渡していただけますか?本当は私が自分で届けたいのですが、あいにく王は私がかの地に行くことを許してはくれません」
――それは、とうていお許しにはなれないことだろう、と方は思ったが、むろんそのような非礼な言葉はぐっと飲みこんで済ませた。
「ですが、一刻も早く本人のもとへ返すのがよいかと思って。ですから、どうか私のかわりにあの職人に渡してください。直接会って渡せない無礼を詫びていたと、そして、この簪を贈られた者は、無事に本来いるべき場所に戻った、と伝えてくださるように。そして、今は無理ですが、いつかきっと会いに行く――と」
すでに男は、もとの謹厳で冷静な州知事に戻っていた。彼は恭しく簪を押し頂き、ゆっくりと言葉を発する。
「臣、すべて旗妃のお言葉のとおりに致します」
跪いて拝礼し、また立ち上がってつつましく視線を伏せた。
「ありがとう。これでやっと、私の旅も終わりました」
王妃の声に安堵の響きがにじんだ。そして、
「せっかくここまで来たのですし、大旗のお許しも得ていますから、私がここを案内して進ぜましょう。一見何もない冬といえども、この広い苑内、探せば見るべきところもあるのですよ」
と言ってにっこりすると、方英慈の先に立って歩き出した。
【付記: 了 】
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました。
よろしければ、『罫線のないノオト』第10話「『手のひらの中の日輪』を書き終えて」もご一読賜れば幸甚です。
https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054883089882/episodes/1177354054883951778
また、本作に先立ち、女官「海星」=レツィンの少女時代を描いた「翠浪の白馬、蒼穹の真珠」がございます。未読の方はぜひ。
手のひらの中の日輪 結城かおる @blueonion
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