第47話 短剣を投げる少女
徐州から瑞慶府までは五日の距離で、その道をたどる班の一行には新たに軽装の荷担ぎが加わっていた。何も事情を知らない他の班員は、魏兆の従僕が主人の用で都まで同道するという触れ込みを疑問にも思わず、彼と軽口を飛ばし合っていた。
また、途中の
「――やっ!」
宝余は落ち着き払って、見事に五本の短剣を戸板に縫い付けてみせた。わあっと歓声が上がり、そのとき宝余は、自分が努力によって身に着けたもので認められた嬉しさに心が浸され、なかば熱に浮かされたかのように観客に礼を言い、膝を折ってお辞儀をした。
「なかなかやりますね。天下広しといえども、短剣投げに長じた王妃様などおられますまい」
芝居がはねた後、観客の側で見守っていた弦朗君が宝余に囁きかけると、宝余はくすりと笑って伶人のごとき見えを切った。
「熱心だな」
陽の残光のなかで、戸板を持ち出して短剣投げの稽古をしている宝余に、忠賢が声をかけた。
「初めて投げる側に回って芸を披露したわけだが、感想は?」
宝余は、少し首を傾けて考え込んだ。
「晴れがましくて、恐ろしくて、…でも、今日が終われば、また明日投げたくなる。そんな感じでしょうか?」
「なるほど、上手いことをいう。それに、強情で恐いもの知らずのそなたが『恐い』というなどとは、初めてだな」
むくれた宝余に、大賢は一笑した。日頃むっつりした表情が多い彼にしては、珍しいものだった。
「冗談だよ、芸の魅力に取りつかれたな。だが、気をつけないと戻れなくなる」
そう言って、彼は後ろに回していた両手を前に出した。そこには、酒瓶と二つの小さな椀が握られている。
「まだ修行中とはいえ、とりあえず人様の前に出られるようになった、その祝いだ」
横倒しになった丸太の上に、二人して並んで座る。忠賢がなみなみとついでくれた酒を、宝余は美味しそうに飲み干した。
「…ああ、いいわね」
その飲み方に、忠賢も驚いた様子だった。
「強いのは、心だけではなかったのか」
宝余は、くすくす笑った。実は、酒の味を初めて知ったのは婚儀の盃ごとで、のち数度の酒宴に臨御したときに供された酒で好むようになったのだが、いかんせん上品な宮中においては、小さな盃に口をつける程度のことなので、内心物足りなく思っていたのである。
「一度こういう風に、椀で一気に飲んでみたかったの。班の皆のやり方を真似て、ね」
大賢はそれを聞き、何かを考えているようだったが、やがて口を開いた。
「そなたとの同行の約束は、瑞慶府までだったな。だが、本当に帰るべきところがあるのか」
宝余は、手にしていた空の茶碗を脇に置いた。
「…多分。私はそれを確かめに戻らなくてはならないの、あの地で」
「誰か、待つ人がいるのか?」
ぽつりと聞いた忠賢は、こころなしか寂しげに見えた。
「ええ」
宝余としては正直に言うほかはない。
「そうか。戻らねばならぬ場所があるのなら、それでよい」
忠賢は酒をついで一気に飲み干すと、立ち上がって皆のいるほうに歩いて行った。その広い背中を見送りながら、宝余は何故だか彼にすまないような気になった。
班の皆は焚火を囲み、賑やかに夕餉を取りながら酒を酌み交わしている。その歓談の声を遠くに聞き、宝余は宵の明星の輝く夜空を見上げながら、ふうっと大きな息をついた。
――そう。瑞慶府に着けば、先に待つのが何であっても、この生活も終わることには違いない。
弦朗君の話に加え、先ほどの忠賢の態度と言葉が気になっていたためか、今夜はしきりに紫瞳の人を思い返す。
――お元気だろうか。難局に当たり、よくお休みになっておられるだろうか、お食事は摂っていられるだろうか。
そんな彼女の考えごとを中断するものがあった。誰かの囁き声、そして複数の密やかな足音。
「……誰?」
怪訝な顔で振り返ったその先に、茂みを掻き分けて人影が立った。
「――傀儡の」
肩に小雲を止まらせた紅鸞であった。彼女は宝余に気づき一瞬驚いたようだったが、すぐにいつもの尊大な姿勢に戻った。
「あら、班主の声がこちらから聞こえてきていたけど、あんたとお楽しみだったの?」
侮蔑を含んだからかいだが、宝余は動じることもなかった。
「そういうのではないわ、私の芸が上手く行った、その祝いを交わしただけよ」
紅鸞は鼻を鳴らし、宝余の持つ酒椀を一瞥して眉を上げる。
「お嬢さんが、そんな椀で酒を飲むの?お行儀が悪いわね」
宝余は、自分に対する紅鸞の態度の悪さには慣れていたから受け流した。
「今そこに誰かいなかった?足音と囁き声が…」
紅鸞は肩をそびやかした。
「そんなの聞こえるわけないでしょ。あんた、おつむだけではなく、耳も悪いの?」
さすがにむっとした宝余を見て、態度を改めのだろうか、紅鸞は口調を優しげなものに変えた。
「気を損じたかしら、ごめんなさいね。ところで宝余は、どこで生まれたの?生国は?ご両親はお元気かしら」
気を遣っているかに見えて、何かを探るような相手の声音に違和感を覚え、宝余は眉をひそめた。第一、普通の彼女なら、自分を名前でなど呼びはしない。
「……お互いの前身を詮索せぬ、これは天下の遊芸人の決まりごとなのでは?」
違和感といえば、それ以前に、宝余は紅鸞の何かにずっと引っかかりを覚えていたのだが、上手く言い表すことができない。ともあれ、彼女の返答を聞き、傀儡師の不自然な優しさは一瞬で消えた。
「ふん、班主に媚びを売っても無駄なことよ。あんたと瑞慶府で永久に別れられるのはせいせいするわ」
吐き捨てるなり踵を返す。宝余は「媚などでは…」と抗議の声を上げざま、びくりとした。彼女の肩に乗った小雲がぎろりとこちらを睨んだように見えたのだった。その憎々しげな、人形とも思えぬ眼差しに宝余は恐怖を覚え、自分で自分の胴に腕を回し、寒気に耐えるようにひとり座りこんでいた。
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