第45話 身の証し

 そのまま宝余は見回りを終わらせ、弦朗君を同道して魏兆の書房に赴き、預かっていた全ての鍵を返した。魏兆は宝余に礼を述べる以前に、彼女が弦朗君とともに現れたので仰天の態だった。


「光山さまには、あれほど上手く隠れていてくださいと申し上げたのに…」

 呆れたように魏兆が言うと、弦朗君は髷から簪を引き抜き、頭をぽりぽりとかいた。

「いや、面目ない」

「では、魏の旦那さまがやはり弦朗君さまをお匿い申し上げていたのですか?」

 魏兆は眼を伏せた。


「かつて、御方はご自身と山房の命運を賭けてまで、我等を救ってくださったのだ。なればこそ、今度は私がお救いするべきかと――」


「でも、魏家の捜索の際、弦朗君はすでにここにいらしたのでしょう?どうやってしのがれたのですか?」

 邸の当主の代わりに、弦朗君が答えた。

「ああ、私は奥方の霊柩を安置した台の陰に隠れていたのだよ。あそこばかりは兵も荒さなかったな。だがしかし、そなたの奥方の安らぎと、魏家累代の蔵書を喪わせてしまったのだから、私も罪なことをした」

 宝余もまた書香の家で育てられたので、魏兆の喪ってしまったものの大きさが痛いほどわかった。

「いえ、彼奴きゃつらの手にあなた様をお渡しなどできませぬ。有りがたくも勿体ないお言葉にございまする」

 魏兆は首を横に振った。


 宝余とともに魏兆の書房を辞した弦朗君は、いまは彼女と向い合い、中庭の一角に立っていた。月の明るい晩で、昼間の邸内の気ぜわしさが嘘のようだった。


「――それで、あなたはご自分が旗妃であるとの証明をどのようになさいますか?残念ながら、私はまだ旗妃さまとは御簾越しにしかお目にかかったことがないので、お顔を存じ上げないのです」


 宝余はいちど視線を落としたが、またすぐに顔を上げた。

「奥方の光山夫人は、私の婚儀の介添えをお勤めになりました。その時、私はかつぎを被ったままでしたので夫人の胸から下しか拝見できませんでしたが、ご装束などを覚えております。……いまつぶさに申し上げてみましょう」


 つまりはこういうことである。どの国においても、およそ官位を有するものは男女問わず、同じく他者の衣冠からその者の身分を瞬時に判別し、相応の礼をとって互いを秩序付ける。であるから、王族や貴族はみな相手の衣服や冠ばかりか、さまざまな装飾品をよく観察し、それを細かく覚えているものなのである。

 宝余は答えるまで少々間をおいた。それは懸命に思い出そうとしているからではなく、すでに頭の中で正確に再現できているものを、効率よく説明するために話を組み立てる、そのために必要な時間であった。


「そう、夫人は黒の補服をお召しでした。裾の縫い取りは海に蓬莱山、その上に灰色のおおとりが一対をなして刺繍され、下には若草色の裳を身につけられていました。裳裾は濃い緑で縁取りされ、織り出された牡丹紋が散っておりました。帯から下がっていたのは翡翠と白玉、ひとつは円のなかに蛟をかたどり、ひとつはいにしえの玉器の形。この形は大層珍しく、玉のきめの細かさといい希に見る優品とお見受けいたします。指の戒指かいしは金の細工、一箇所だけ緑宝石をあしらったもの。それから肩掛けの一部も見えましたが、刺繍は日輪をいただいた山に、白烏が止まっているものです。あなたが今お持ちの肩布も、同じ徽章が入っておりましょう」

 

 よどみない答えに、弦朗君はにっこりした。

「まさしく、あのときの妻の装いに寸分たがうことはありません。佩玉のことをおっしゃった時点で、この方は旗妃さまご本人だということがわかりました。と申しますのも、あの玉器は我が父の遺愛の品で、私から妻に与えたもの。もとより玉の存在を知る者はごく限られており、妻は王妃のご婚礼の日にはじめて身につけたのです」


 弦朗君は片膝をつき、王妃への拝礼を行った。

「王妃さまをお試しするようなことを致しました、どうかお許しください」

 宝余はあわてて免礼のしぐさをした。

「どうかお気になさらないでください。瑞慶宮を出て以来、はじめて身の証しが立ちました」

 答える宝余の声に万感こもごも混じっているのを感じたのだろう、彼は微笑を浮かべて懐から手巾を取り出した。畳まれたそれを開くと、中から出てきたのは小さな銀の笛だった。

「これは私が出立する前、海星が私に託したラゴ族の笛です。運よく王妃さまに出会えたら、これを渡して欲しい、ラゴの神の祝福を受けた笛で、必ず御身をお守りするだろうから、と」

「海星が――」

「吹けば良き音色も出ますが、この笛は彼女の分身のようなもの。どうか、お手元に」

 宝余は、後苑で舞っていた副女官長の艶姿を思い出し、両手でその笛を受け取った。そして、銀細工職人のくれた烏神の護符に包み、大切に胸元におさめた。

「懐かしいこと、彼女も、皆も元気かしら」

 遠い眼をする王妃を引き戻すかのように、弦朗君が口調を改めた。


「ですが、お妃。これからどうなさいますか?たとえば私が何とか瑞慶宮に還って王に復命をいたさば、きっとお迎えが遣わされると思いますが」

 それを聞いて、宝余はふっと溜息を洩らした。

「…実は、ここに来るまでは何としても瑞慶府に戻りたかったのですが、今はその心が揺らいでおります。いまにして思うと、戻る動機はただ私を放逐した者達への復讐のためだけではなかったではないかと。……私にはわかりません。このまま戻ることが、そしてあの方の隣りに再び座ることが、果たして烏翠のためになるのであろうかと。かといって、涼に帰ることもできませんし…」


 ただでさえ優しい弦朗君の眼差しが、ますます優しくなった。

「国君をお疑いですか?」

「そんなこと……」

 宝余は顔を赤らめた。

「では一つお話しいたしましょう。あなたが瑞慶宮を出ることになったその理由を」

 そこには、どのような事情があったのだろうか――。

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