第28話 公事宿の人々
「あ…」
低くすすけた天井が眼に入った。
宝余が顔を横に向けると、自分を心配そうに見下ろしている者が三名、すなわち中年の女が一人、壮年の男が一人、そして宝余に唾と罵声を浴びせた男、彼等がそろって自分を見守っていた。
「私……どうして?」
中年女が言葉をひきとって、
「あんた、知事さまのご門前で倒れたんだよ。ああ、眼が覚めてくれてよかった。ここは宿だよ、ここまではるばる訴えに来た私等が泊まっているところだ」
自分が寝かされている部屋は天井が低くごく狭いもので、女の身体の向こうには、行李と傘が置かれているのが見えた。
宝余の眼から涙が流れ落ちた。意識が戻ると、頭が割れるように痛い。
「どうしたんだい、どこか痛いのかい?それとも苦しいのかい」
「…ごめんなさい。門が閉じてしまって…」
病人の口から嗚咽が漏れた。
「いいんだよ、気にするな。先ほどはすまなかったな」
と言ったのは、宝余を罵った男だった。今は皺の寄った顔を和ませており、冷たく濡れた布を宝余の額に載せた。
「で、お前さんは一体どうしたんだい?そんな死人のようななりをして、お役所に駆け込んで。誰か死んだ人がいて、それに関することなのかい?」
宝余は眉をよせて微笑んだ。
「…ごめんなさい、それを人に言うことはできないのです」
「だったら仕方がないな、事情は人それぞれだ。一晩ここで休んでいくがいいさ。起き上がれるようだったら、食事もするといい」
そのあっさりした物言いに宝余は意外な気もしたが、聞けば彼等はもともと互いに何のゆかりもなく、ただ方々から訴えに来たというつながりしか持っていなかった。しかしこうした者達は往々にして
彼等が泊まっている宿は木賃宿同然で、食事はみな客が用意することになっており、庭先で竈や包丁を借りて食事をこしらえるのであった。この宿に泊まるそうした客は総勢六人、宝余のことについては、渋る亭主を皆が説得して、一晩だけでも置いてもらえるように頼んだらしい。
頭の布を乗せてくれた男は櫛や簪を作る飾り職人で、寝ている宝余に問わず語りに話した内容によれば、もともと彼は小さな鎮で娘と二人暮しで、男は美しい櫛や簪を作り、娘は死んだ母のかわりに家事を引き受け、つつましく日々を過ごしていた。ところが、娘が鎮の長に無理やり妾にさせられ、それを苦にして縊れ死んでしまった。父親である彼はわずかな財産をまとめて鎮を逃げ出し、正当な裁きをもとめてこの庁に来たという。
今はここに来てから三週間近く経ち、手元にあった細工物を売って旅費と宿の滞在費、訴訟ごとへの支払いなどを工面している。彼は、娘が妾として
「それにしても、あんたは不思議な人だな。詮索するつもりもないが、物腰といい口調といい、およそただ人とも思えないが」
宝余はあいまいな笑みを返すよりほかはなかった。
それでも彼等は、宝余の身の上をそれ以上突っ込んで聞くことはなかった。互いの事情を知っていてもあえて踏み込まないのが、かれら訴訟人達の暗黙の了解であるらしかった。宝余の話す言葉が純粋に烏翠のものではないことは承知しているだろうに、それについても何も聞かれなかった。それは、知り過ぎないことで互いの身と安全を守る知恵でもあった。
あたたかい湯気の立つ黍粥をすすり、また横にならせてもらう。人の情けが身にしみて嬉しく、宝余の眼から再び涙がこぼれ出た。
「私、本当に馬鹿でした。確たる証拠もないのに、州庭に訴え出るなんて…」
若い女はくすりと笑い、やさしい目で宝余を見ていた。
「あえて訴え出るくらいなのだから、あんただってよほど困っていたんだろう?人間、溺れるものは何とやら、ほんのわずかな望みがあれば、それにしがみつこうというものさ」
それを聞き、彼女は起き上がり、思わず急き込んで言った。
「でも、王に対して腹は立たないのですか?知州を任命したのも、もとは瑞慶宮でしょう。王の責任を問おうという気にはなりませんか?」
そのいささか刺激の強すぎる、前のめりな言葉に、そばにいた皆はびっくりするような目で宝余を見た。
「だって、責任といったところで、どうしようもないじゃないか。あんな雲の上のお人を……あんた、そんな激したことを言うとお役人に捕まっちまうぜ」
「そうではなくて…」
「まあまあ、お嬢さん」
苦笑を浮かべながら口を挟んできたのは、それまで言葉を発さなかった若い男だった。彼はほかの者と違い、ここには訴えに来たわけではなく、都から私用で旅をしてきたという。人のよさそうな、しかし人の記憶に残らぬような面立ちをしていたが、細い銀の煙管を唇の端にとまらせ、着る物も挙措も、そして物言いも、明らかにほかの者とは生まれ育ちが違い、とうていこのような安宿に泊まる人間には見えなかった。だが、それにしてはさばけた性格らしく、周囲から浮き上がることもなく衆人の輪に溶け込んでいる。
「知事様は数年で異動してしまうけれども、鎮長のような輩は何代にもわたってその土地を実質的に支配しているのだよ。いかに清廉潔白でやり手の知事様といえども、そいつらと互角にやりあうのは難しい。胥吏と彼等も結託しているから、知事様がうかつに締め付けると、胥吏が仕事を放棄する。そうなると、州県の官庁もお手上げというわけさ。もっとも、州や鎮によって、大分事情も変わるだろうけれども…」
彼はそう言うと、宝余が今まで見たこともないような優雅な手つきで、銀の煙管を盆の上に置いた。
宝余はふうっとため息をついた。
「私は単純に考えすぎたのかもしれません。どこもかしこもあまり変わらない――」
彼女は自分の生国のことを思い出した。
「そうだろうね」
男はきれいに結い上げた髷を傾け、「大旗のことは軽々しく言うべきではないけれども」と前置きして、
「それに、王の責任といったところで、今の大旗はご即位されて間もないし、朝廷には多くの臣僚達がなお従わぬというから、このような地方まではすぐに手が回りかねるのではないかな。でも私はね、現王さまに期待しているよ。むろん、今の知事さまにもね。少なくとも知事さまは賄賂を貯めこんだりするような方ではないし、謹厳な方だとは聞いているが、難治の地といわれているここを治めるのには大分苦労されているのではないかな。良い方だと聞いてはいるが、老練かと言われればどうだろう、ちょっと精錬さが勝ちすぎるね。だが、前やその前の知事ときたら、本当にどうしようもない、禽獣より禽獣のような輩ばかりだったらしいから、いまになってこうして越訴が増えているのさ」
彼は、宝余が期待した以上のことを答えてくれた。それで彼女は、旅人の話と、自分の網膜になお残る州知事の残像とがぴたりと合うように思った。たしかに、知事のあの苛立ちは宝余のせいだけではなかった。よりによって、治めるのが難しい土地に赴任した知事は、州政の多難さに手こずり、疲労していたのだ。
男は宝余が黙り込んだのを見て、彼女が疲れていると思ったらしかった。彼は周りを見渡し、
「やれやれ、難しい話になるものだから、せっかく食事で目がさめた皆が、また眠そうな顔をしているよ」
そう言って煙管を懐にしまいざま立ち上がると、宝余にじゃあ、と手をあげてさっさとどこかへ消えていった。
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