第27話 臨州正堂

 「臨州正堂」の額が掲げられた建物の庭には紫檀の椅子が据えられ、背もたれには青地に山河、それに白烏の紋章が刺繍されている。

 そして宝余は椅子の前、一間ほど離れた地面に敷かれた蓆の上に座らされ、背後には三人の兵士が立つ。


 銅鑼が鳴り、「知事様のおなり――」と先触れが呼ばわった。宝余はそれを聞き、ひとつ大きな息をついて頭を下げる。

 重々しい足音がして、衣擦れの音が宝余の耳朶を打った。彼女は頭を下げていたが、視界の隅に、黒い靴が椅子の足の前で止まるのが見えた。

「顔を上げよ」

 言われるとおりにすると、正面に官服を着た、六十がらみの痩せた男が座っていた。


「わしが臨州知事の方英慈ほうえいじである。そなたは州庁に闖入ちんにゅうし、わが近辺をさわがせた。本来は重く罪するべきであるが、鼎に手をかけたと聞けば致し方ない。わしはそなたの話を聞かねばならぬ。すみやかに出身と名、用件を申せ」

 そして神経質そうな咳を連発した。

どうやら気難しい相手らしい――そう踏んで、宝余は心の中でため息をついたが、作法どおりに目を伏せた。


「私、州庁と知事さまの御心を騒がせたことをまずお詫びいたします。そして――」

「待て」

 早々に口上はさえぎられた。

「…そなた、烏翠人ではないな?言葉になまりがある」

「ご明察、恐れ入ります。私はいかにも烏翠人ではありませぬ。私の生まれは涼国の彩州さいしゅう、訳あって烏翠に嫁ぎましてございます」

「名は」

 宝余はしっかりと相手を見据えた。


大人たいじんに申し上げます、信じていただけるかどうかはわかりませぬが、私の姓はいみなれいと申します。我が父は涼王、宝余とは通名、嫁いだ夫とは、烏翠が国君でございます」

 知事はぽかんと口を開けた。

「何だと?」

「そうです、私は涼国の公主にして烏翠の旗妃――お疑いであるならば、瑞慶宮にお問い合わせださい。お信じください、私はこの烏翠の王妃です」

「確かに、大旗のもとに嫁がれた異国の公主はそなたと同じ年頃の方だと伺っておるが……こやつめ、わしをたばかっておるな。何か証拠でもあるのなら見せい」

「証拠…」

 宝余ははたと気がつき、己の愚かさを恥じた。証拠となり得るものは何も持っておらず、自分が身につけているものは素服ばかり。しかもいきなりこのようなことを官の面前で言ったばかりか、何も証し立てるものを持ち合わせていなければ、知事に面会したとて仕方がないことではないか。


 ――自分は、涙が出るほどの馬鹿者だ。


 口ごもる女の姿を目の当たりにし、知事の顔にはみるみる怒りがたまっていった。

「そなた、恐れ多くも旗妃を騙るとは命知らずにもほどがある!第一、王妃さまはここより百里も離れた瑞慶宮の奥深く、余人の目も触れぬところにお住まいのはず、わしですらご尊顔を拝したこともない。それなのに、この臨州におわすはずなど、万にひとつでもありえぬこと!こやつ、鼎に手をかけておいて偽りを申すのか。天子と国君の恩沢おんたくに泥を塗る奴、早々にここから引っ立てい!」

「お待ちください、私は…」

 宝余は乱暴に衛士に腕をつかまれながら、なおも抗弁を試みた。

「本来は重罪とすべきところ、この女はどうも気が触れているようだ。そうそうにここからたたき出せ!」


 衛士達が彼女を門外に放り出したとき――それは、本当に文字通りの「放出」というにふさわしいやり方だった――、訴状を持った民達は性懲りもなく舞い戻り、宝余が乱暴に背中を押されて転ぶのを、無表情な眼で見守っていた。


「…痛い」

 芝居での滑稽役そっくりだ、と宝余は思った。ころころ、と擬音が聞こえてくるような転げ方だったのだ。掌を地面にひどく擦ったので、彼女は痛みに顔をしかめた。

 ようやく身を起こして、あたりを見回すと、まわりを囲まれていることに気がついた。人々の無表情だった目は、今は怒りと困惑をたたえている。


 ぺっと、何かが宝余の顔に飛んできた。思わず手の甲でぬぐうと、べっとりとしたそれは人の唾だった。唾液が飛んできたほうを睨むと、人垣のなかからごま塩頭の老人が進み出てきた。

「お前さんは一体何だい、おかげで門が閉まっちまったじゃないか。今日はもう、知事さまはお出ましにならんだろう、何をしでかしたかはしらんが、余計なことをしてくれおって」

 そうだそうだ、といくつも相槌が打たれる。


 宝余が振り返ると、先ほどまで空いていた官庁の門は、いまはぴたりと閉ざされている。その鉄でできた門は、何もかもを拒む威厳に満ちていた。彼女の眼に、その威容はなぜか瑞慶宮のそれよりも立ち勝っているように見えた。

「……」

 彼女は無言で立ち上がり、痛む肩を押さえてとぼとぼと歩き出す。

 さすがに彼等も彼女のただならぬ様子に気づいたのか、口をつぐみ、道をあけて彼女を通した。宝余は彼等が眼に入らぬかのように歩いていたが、すぐに立ち止まった。

「おい…」

 民の一人が彼女に歩み寄ろうとしたとき、宝余の頭がふらりと動いた。

 その場に崩れ落ちた彼女の身体の周りには、再び人垣ができた。

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