第26話 血を呑む鼎

 ――あれが、ここの州庁。


 臨州の州庁は、大きな川のほとりにあった。門の近くにはいかにも古そうな石橋がかかっており、宝余はその上にたたずみ、辺境の国の州庁にはいささか不似合いな、堂々とした門構えを遠目に見ていた。


 門の両脇には衛兵が二名、足を踏ん張って立ちはだかり、ちょっとやそっとでは中に入れそうもない。

 それが証拠に、宝余からさらに近い距離からは、白い封筒を手にした民達が数名、遠巻きに門を窺っている。宝余は、彼等の手にしているものが訴状であることを知っていた。涼での在地だった彩州さいしゅうでも、ほぼ同じような光景を目にした事があるからだった。


 訴え出ようとする者達は、州知事が官邸を出るときを辛抱強く待っているのだ。官邸は知事の住居も兼ねているから、知事が門を出るときは限られる。それでも、そのわずかの機会に知事に直接訴状を渡して訴えるべく、こうして待っているのだ。

 むろん、訴状は州庁の所定の機関が受け取ればよく、したがって民もわざわざこのような方法を取らなくても済むはずだった。

 何より、本来は長吏に直接訴えることは「越訴」として禁じられているのだが、州庁に渡せばどこで訴状を握りつぶされるかもわからない。それに、訴状の受理に際しては、担当の胥吏が法外な手数料を吹っかけてくることもままある。だから、彼等民たちはこうして忍耐を選んでいるのだ。


 だが直訴の困難さのひとつは、「身入り」の減る胥吏が門番を抱き込み、越訴を妨害してくることだった。とはいえ、門番や胥吏といえども、民にうかつに手を出すと自分が罰せられてしまうため、民草と微妙な間合いをとってにらみ合っているのだった。


 ――でも、民がこうして知事の出駕しゅつがを待っているということは、少なくとも暗愚な知事ではないらしい。


 箸にも棒にもかからない知事には、待つ民さえ存在しないのである。事情を話せばわかってもらえるかもしれない、という淡い期待が宝余の期待に芽生えた。

 そうこうしているうちに、門番の衛士がいきなり衆人を追い立てにかかった。

「本日も知事さまはお出ましにはなるかどうかわからん、あてにせずさっさと帰るがよいぞ」

 兵士の態度は追い立てるというよりも、むしろ蹴散らすといったほうが妥当なもので、追い立てられた者達は悲鳴を上げ、雲の子を散らすように逃げていった。


 ――いまだ。


 宝余の身体が動いた。門番は追い立てに深入りしすぎて、二人とも門から離れてしまっていた。そのすきに彼女は橋の陰から飛び出し、門を目指して走り出す。

「あ、おい!」

 軽い足音を聞きつけた一人が振り返ると、いましも飛鳥のように白い影が門をくぐろうとするところだった。

「待て!待たんか!」

 猛烈な勢いで門番達は駆け戻る。鎧を着こんでいるとはいえさすがに兵士、二の門を通り抜ける宝余のすぐ後ろにまで迫っていた。

 宝余が中庭に飛び込んだとき、とうとう彼女は肩をつかまれ、そのまま地面にひきずり倒された。彼女は悲鳴を上げ、地面を転がって止まる。

 うつぶせになった宝余を今度は引き立て、もう一人が腰から束になった縄を引き抜いたとき、宝余は身をひねって相手の腕をかわし、飛び退った。そのすぐ後ろには水を張った大きなかなえがある。


「この…」

 憤激に震えながらも、兵士たちは手を出しかねていた。彼等を尻目に、宝余は鼎の縁に右手をかけた。手の甲にはさきほどの騒ぎでできた大きな擦り傷があり、血が流れ始めていたが、本人は気にもしていなかった。

「お聞きください!」

 州庁の正堂に向かい、彼女は震える声を無理に張り上げた。


「およそ天下の国あるところ、州あるところ、その治所には鼎が置かれ、それに手をかけたものには誰でも長吏への直訴を許す、といわれています。これはそのかみ天子さまが民草に許されたこと、そして、この烏翠が天子さまの正朔こよみを奉じ、朝服を賜っている以上は、決してなおざりにしてはならぬ決まりごと。私がいまこうして鼎の傍らに立ったからには――」


 宝余は手を伸ばして水をすくってみせた。血がうっすらと水に溶け出す。

「知事さまへお話し申し上げる権利があるはずです、すでに鼎が私の血を呑んだ以上は」

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