第29話 簪と護符
「何があったのかは知らないけれど、あまり気に病むもんじゃないよ」
翌朝、しつこかった頭痛も消え、宝余は生まれ変わったような気分で起床した。庭に下りて朝食の準備を手伝い、皆でなごやかに朝の膳を囲み、粥をすすった。
あの煙管の旅人はすでに出立してしまっていたが、残る訴訟人達のいまの関心は知事の人となりに集中しており、彼等は宝余が知事と言葉を交わしたと知るや、どのような人間であるのかをしきりに聞きたがった。
「でも、鼎に手をかけたというのに、お前さんは結局訴えを聞いてもらえなかったんだろう?」
「それは仕方がないことです、私が知事さまを説得できなかったのだから。でも…」
宝余はあらためて、知事の風貌や挙措を思い浮かべた。
「そうね、気難しい方ではあるけれども、証拠をきちんと出して情と理でもって説得すれば、きっとお聞き届けはしていただけると思う。どうしようもなく話が通じない、という方ではないようです」
それを聞いて、ほっとする者、不安そうな顔をする者、反応は様々であった。
「さて、もう行かなくては…」
片付けが終わり、今日も庁門で知事を待ち伏せしようと身じまいにかかる皆に、宝余は
「行くってどこに行くんだい?それに、昨日倒れたばかりじゃないか。もう一晩だけでも宿に頼んでみようか。上手くすれば、ここで少しは働かせてもらえるかもしれないし」
宝余は首を振った。
「お気持ちはとても嬉しいけれども、これ以上皆さんのごやっかいにはなれません。私、行きます。瑞慶府へ」
「瑞慶府?」
居合わせた者は一様に驚きを隠さなかった。
「瑞慶府なんて、どうしてだい」
「あそこはすぐに行ける場所じゃないよ、女一人ではとうてい無理だよ。ろくに荷物も持っていないのに。少しだったらわしらもいろいろ分けてあげられるけれども」
「そうだよ、途中には盗賊の出る山も、渡るのが大変な川もあるんだよ。あんたが何をしに行くのかは知らんが…」
口々に言われる引止めの言葉を、宝余はありがたい気持ちで聞いていた。だが彼女はぐるっと六人を見回し、微笑みながらもきっぱりした口調で言った。
「ありがとう、皆さん。でも私はあそこにいかなければならないのです。私の身の上の問題は、やはり瑞慶府でしか解決できない」
「…そうか」
一同はそれ以上止めることもできないと悟り、宝余とねんごろに別れの言葉を交わして去っていった。
「知事さまがうまくつかまるといいですね」
「ありがとう、あんたも元気でな」
「また倒れないようにね」
そのなかで、中年女は彼女の腕を引っ張って古ぼけた行李の前に連れて行き、なかから履物を取り出すと彼女に渡した。
「これをお履き、あんな布袋では途中で足が擦り切れてなくなっちまうよ。見たところ、あんたは裸足で育っているようなお人ではないようだから」
宝余は履物を抱きしめた。胸がいっぱいで、口では感謝の言葉もいえなかった。
背後から、また別の声がした。
「履物だけでは不足だな。そのいまいましい死人のような服も何とかしなくちゃ。そんなものを着て歩いていたら、皆あんたのことを狂女だと思うばかりだよ。それに男の格好をするのなら――」
飾り細工職人は灰色の大きな布を取り出した。
「あんたは嫌かもしれないが、これはおれの服だ。綺麗に洗ってあるから、着ていきな」
「嫌などと――」
「おっと、これ以上涙は勘弁してくれ。あいつを思い出していけない」
そう言って宝余に上着を押し付けて背中を向け、がつがつと足音を立てて廊に消えていった。
宝余が黙って、その方角に向かって深ぶかと頭を下げると、中年女が背後からしみじみとした口調で言った。
「昨日ね、あんたが寝た後、あの人が言っていたよ?あんたと、死んだ娘さんがよく似ているんだって。あの人、そう言いながら泣いていたんだよ」
「……」
腸が断ち切れるほど辛い身の上話をしてくれたのに、一度も名乗らなかったその男。まわりの誰も彼を姓名で呼ばなかったのは、彼が名乗らないので、あえてそうしているのだろう。宝余は彼のために、そして彼の死んだ娘のために、訴えの成功を祈った。
宝余は胸を布で巻き、さらに職人からもらった上着を見にまとった。男は小柄であったので、宝余でもさほど苦もなく体型に合わせて着ることができた。服は色あせているばかりかあちこちにつぎも当たっていたが、さっぱりとして清潔だった。
帯は別の者が分けてくれた縄を代用して結び、身じまいを終わらせた宝余はやっと自分が人間らしくなったように思えた。やはり麻の服のままでは、どことなく自分が半分死んで黄泉の国にいるような、ふわふわとした落ち着かなさを感じていたのだった。
すでに素服はかなりいたんでいたが、宝余はその布目を解いて袋に仕立て直した。宿から針と糸を借り、がらんとして
それに中年女が餞別にくれた芋と焦がした小麦粉の包み、別の者が与えてくれた火打石の一式を入れ、宿への礼に半日の炊事仕事――涼での養家暮らし以来、久しぶりの炊事だった――を終えると、日はもう中午を過ぎていた。
宿の玄関を出て足を踏み出した宝余は、一瞬めまいを覚えた。あたりは白々しい光に満ちており、遠くには庁の門と、胡麻粒大の人の群れが見える。
何の気もなしに懐に手を入れた宝余は、手先にひやりとした感触を感じ、はっとして手を引き抜いた。握られていたのは、見覚えのある銀のかんざしが一本。根元に何か紙切れが巻きつけられているが、それは昨日これを見せられたときにはついていなかった筈だ。
広げてみると、この国を護りたもう烏神の護符だった。青地に白色の烏が擦られたそれは、まだ紙が新しい。宝余はそれを額に押し頂き、声を押し殺して泣いた。
彼女は送り主のいるであろう方角に向かって跪拝して立ち上がると、涙を手の甲でぬぐい、州庁とは反対に向かって歩き出した。
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