第21話 冬淋宮

 冬淋宮とうりんきゅう

 それは瑞慶宮の東北の隅に位置し、門と殿とごく狭い中庭を持つ建物群である。他の殿のように蒼の瑠璃甍ではなく黒色の甍の屋根を持ち、門も柱もすべて漆黒に塗られ、全ての窓には白ではなく灰色の紙が使われており、明らかに異様な外見を持つ。

 

 そしてこの殿舎は、名の響きだけで宮中の誰もが怖気をふるい、近寄るのも避けるほどの忌まわしさに満ちていた。それも当然で、ここは廃位された妃嬪ひひんや、重い処罰を受けた女官を幽閉するための場所にほかならない。いわゆる冷宮である。妃嬪の場合は正面の正房に、女官は左右の耳房(注1)に幽閉される慣わしであった。

 

 ひとたび冬淋宮に入ったものは、まず滅多なことでは再び門外に出ることはできない。非業の死を遂げた高貴な女性達の魂が、夜ごとに黒い回廊を徘徊する――とは、どの女官も知っている言い伝えであった。


 「決して廃妃にするわけではない、いずれ疑いが晴れればもとに戻す」とは王の言であったが、宝余はそれをほとんど信用していなかった。王妃の冬淋宮遷御は秘密裏に行われ、後宮はもとのごとく、主がいると見せかけてその不在を取り繕うことになった。


 しかしこれは、宝余にはおよそばかげた策にしか思われなかった。おそらく秘密裏に遷御を行うということは、王室の体面を保つためと、涼との関係を悪化させないためだろうが、人の口に戸は立てられぬもの、女官達の口からいずれ話は漏れていくだろう。涼の間諜だってこの王宮に入り込んでいるやもしれぬのだ。

 そうなれば、密謀や小細工などはもはや何の意味ももたない。おそらく瑞慶府はもとより、遠く涼にまで妃の遷御が伝えられるだろう。その後はいったいどうなるのか。衆人は、「ああ、やはり王妃は噂どおりの者であった」と嘲笑するだろう。涼王は娘といえどもいまさら宝余の身の上など意に介さないだろうが、このことを口実として烏翠と事をかまえるかもしれない。太妃一派は勝ち誇り、早々に次の王妃冊立のための準備を始めるだろう。


「――それでも、私の知ったことではないわ」

 宝余は、蜘蛛の巣がいくつも張った冬淋宮の天井を見回し、ひとりごちた。

 正房の房には向かって東側に椅子が二つ、その前には部屋に不似合いなほどに大きい卓が置かれている。西側には人一人がやっと横になれるほど小さな寝台、その上には色のあせたみすぼらしい衾が一枚だけのっている。こわごわ椅子に腰を下ろすと、ぎいっと、いかにも嫌な音を立ててきしんだ。彼女が来る前に間に合わせの清掃は済ませたのだろうが、部屋のそこかしこがどうにも埃っぽく、彼女は喉の奥にわずかな痛みを覚えた。


 ――そう、どうなろうと私の知ったことではないわ。

 宝余はそれが好ましくない態度とは知りながらも、どうにもならない状況に、すでに投げやりな気分になっていた。


 彼女はこの日の昼、外朝から戻ってきた顕錬から、あらためて遷御をいいわたされた。言い渡しは内々のものとして行われ、立ち会いは百桃と海星の正副女官長のみである。百桃は眉ひとつ動かさなかったが、海星は見るからに痛ましそうな表情をし、伏し目がちであった。

 非公式とはいいながら王妃の宝璽を入れた箱には封泥が施され、その一刻後にはもう、宝余は粗末な輿に押し込まれてこの宮に来たのであった。内宮を追い出される際には、それまで着ていた常服をはぎとられ、簪も、涼以来いつも身につけている母の形見の白玉ですらも奪われ、かわりにかぶせられたのは麻の服である。銀や玉の簪も抜き取られ、垂髪をごく短い麻の紐で結われた。もちろん金の戒指も取り上げられてしまった。あの小さな日輪が彼女の手の上から消えたとき、彼女は自分の命まで消えてしまったかのような気持ちになった。


「王にもやはり一片のお心が残っておられたとみえる。この私にわざわざ大切な女官長をつけてくださるとは」

 どうせ彼女は私の監視役なのだ。そう思うと、本人を目の前にしてもついきつい口調になる。

「――」

 百桃は皮肉を無言のままに受け流し、ごく薄い黍の粥と茄子の漬物だけが乗った膳を女主人の前に置き、ほかの二人とともに一礼して去っていった。

 灰色の窓は開閉を禁じられ、ただ夕日が濁った色となって部屋を染めている。とはいえ日があるだけまだましだった。ここは灯りも一切禁じられているので、完全に暗くなってしまえば何もできない。

 気づかぬうちに、彼女の指はあるはずもない金の輪を探っている。常に身につけていたものが突然失われ、その居心地の悪さといえば、いま腰掛けている椅子よりはなはだしい。


 ――監視役ならまだいいけれども。

 宝余は遠ざかる老女の足音を聞きながら考えた。

 ――いずれあの女官長は密命を受け、私を毒殺するかもしれない。

 突然彼女の脳裏に、あの毒入りの膳がよみがえった。毒見役の断末魔の悲鳴も、回廊に落ちていた、彼女の身からはがれた血まみれの爪も。

 宝余はおそろしいものでも見るように眼前の膳を見つめたまま、匙もとらずに座っていた。


 あくる朝、宝余が目を覚ましたときには、すでに窓外はわずかばかりの明るさを見せていた。窓に張られた灰色の紙は朝日をも通しにくいのだが、それでもかろうじて時の移り変わりは見てとることができる。

 まぶたを開けた宝余は、何か悪夢から覚めたような、むしろすっきりした気分でいたのだが、目の焦点が格子組みの崩れた天井に合わさったので、そのさわやかさも一瞬で幻と消えてしまった。


 ――やはりこれが現実というもの。


 夢であればと願ったのに、夢ではなかった。

 宝余の枕元には、素服――染めていない麻で作られた一種の喪服――が備えられていた。この宮に住まう者は、いつ賜死の王命が下ってもよいように、目覚めてから床につくまで、常にその服を着て過ごさねばならない。柱から窓枠からすべてを黒で統一された牢獄の殿で、書物はおろか紙の一枚、筆の一軸ですら与えられず、死そのものの衣をまとわされて暮らす。これこそ死よりも過酷な罰であり、なかには日を経ずして狂気を発する者もいるという。


 宝余が袖を通し終わったところで、それを見澄ましたかのように扉が開いた。入ってきたのは百桃で、手には土器の盥を捧げている。洗面を済ませると食事が与えられたが、前夜と同じ黍の粥と漬物であった。昨夜はとうとう一口も喉を通らなかったが、しかし今朝は空腹のあまり、早々に匙を手に取った。もはや、意地汚いといわれようと、毒を盛られていようと宝余は気にはしなかった。

 ごく薄い粥をすすっていると、心のなかにぽつりとひとつの決意が芽生え、みるみる膨らみ葉をつけた。

 ――私は絶対に狂わない。ここを出るまでは決して。

 彼女は怒ったような顔をして、黙々と朝食を片付けていった。


***

注1「耳房」…正房の左右にある房室。

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