第4章 暁の弔鐘
第20話 罠
「大変でございます!王が王妃をこれから直々に詮議なさるとのことです!」
外朝と後宮の連絡を務める海星が額に大粒の汗を浮かべ、珍しく息せき切って坤寧殿に飛び込んできた。いつも穏やかで冷静な彼女に似合わぬ焦りようである。
そのとき、ちょうど宝余は女官達に指示を与えていたところであった。夏とあって、冷涼な気候の烏翠でも日中はうっすら汗ばむようになっており、宝余も女官達も毛織物の上着は取り去って軽い夏の常服姿になり、冬服よりも明るい色合いの女性達が行きかうと、それだけで後宮も華やいだ景色となる。
だが、豊かな色彩をも吹き飛ばす海星のただならぬ様子に、無礼をとがめようとした百桃は急報の深刻さを察して言葉を発することができず、驚いた宝余も勢いよく振り向き、そのはずみで耳飾りの銀の光が飛び跳ねた。
「詮議?王が私を?一体どうして?」
「わかりませぬ。ですが、何でもご婚儀の琴の件だそうです。ただいま外朝よりお戻りになるとのことで…」
琴――宝余は首をかしげた。そうであれば、烏翠に向かう桟道の上で、父王の琴が蔡河に落ちた件に間違いない。だが、あれは宝余が自ら不問に付し、誰の責も問うていないはずだった。今さら何が理由であのことを蒸し返すのだろうか――。
宝余は附に落ちぬまま、差し当たり百桃と海星を残して女官達をみな下がらせ、王を迎えるために立ち上がる。じきに高く早い足音が聞こえてきたかと思うと、当人が姿を現した。極めて厳しい顔つきで、左手には王の御剣である「
「お早いお戻りでいらっしゃる…」
「挨拶は良い、王妃は我が問いにのみ答えよ」
逆鱗に触れるという言葉そのままの顕錬の形相に、宝余は返事するのも忘れてしまったが、さすがの夫も自身の剣幕が醜態に近いものだと気が付き、呼吸を整えた。
「私は事実を知りたいのだ。あの婚儀の道中、誤って琴を河に落とした下吏を、我が府への報告もなしに成敗させたのがそなたであったというが、それは真実か。そなたが役人の殺害を命じたのか」
宝余は王の言っている意味が全くわからなかった。
「成敗?殺害を命じる?一体何のことですか」
顕錬は冷たい目をしてこちらを見ていた。
「それは妃自身がもっともよく知っていることだ。違うか?」
宝余は眉根を寄せた。
「――どういうことですか?」
そこでこの若い妃は、はじめて自分を巡る伝聞というものを知ったのである。
王妃が烏翠へ至るその道中、桟道の上で荷崩れが起き、琴が一面蔡河に落ちて見失われた。王妃はこれに大層怒り、荷を担当していた者を切り捨てさせ、あまつさえ遺骸を河に放りこんだという――。
それが、瑞慶府中をかけめぐっている噂の概要だった。さらに今ではいろいろ尾ひれがつき、まことに聞くに堪えないものになっている。しかもその内容が告発として、王への上啓文に載せられたのだ。
「そのようなこと――嘘です!」
宝余は思わず叫んだ。
「全くの偽りです。確かに、あのとき琴が失われたと報告を受けました。しかし、担当した人間には処分を下さないように申し付けたはずです。これだけは、天地神明に誓って偽りなきこと。私の申すことが嘘だとお疑いであるなら、どうか
夫の袖に手をかけようとしたとき、
「すでに彼には聞いている」
宝余の抗弁はぴしゃりとさえぎられた。
「――え」
「宰領補は申している、自分は王妃から斬殺の命を受けた、と。王の裁可を仰ぐべきだというよう諫言したものの、聞き届けられなかったとも。さあ、結局のところどうなのだ?正しいのはそなたの言い分か?それとも麹祝夜の言い分か?」
「……そんな」
夫に触れようとした手が、力なくさがった。どこでどう話が食い違っているのか、なぜ宰領補は嘘偽りを言うのか、そもそもなぜこのようなことになっているのか。
「大旗――」
成り行きにたまりかねたと見え海星が声を上げたが、顕錬にきっと睨まれ、口を噤んで一礼した。
――謀られたのだ。
宝余は悟った。王に政治的な致命傷を負わせる前に、涼を背景に持つ邪魔な王妃を排除しようとしている輩がいるのだろう。誰かが黒い言葉を吐き、顕錬と宝余はそれに絡め取られてしまっている。だが宝余はそれ以上申し立てを続ける気力もなく、ぐったりと椅子に座り込んだ。
「麹祝夜をお信じになりたければ、そうなさいませ」
彼女は弱々しい声でつぶやいた。
「信じたいも、信じたくないもない。すでに告発された以上、私はそれを解決せねばならず、私が知りたいのは事実だけだ。だがそなたに疑いがかけられている以上、そして私の眼前にその真偽が明らかにされていない以上、そなたはここを出なければならぬ。重大な疑わしき行状のある妃嬪は、その疑いが晴れるまで、みな例外なくその処置を受けるのだ」
――なぜ私の言葉も聞かず、この人は不自然に、かつ一方的に沙汰を下すのか。
宝余には何もかも信じられなくなっていた。
「この殿を出る――ではどこへ遷れと?」
王妃の顔は王ではなく、窓外に向けられている。その口の端から笑みがこぼれ出た。あまりの非道、あまりの理不尽さに、もはや自分の身の上を笑うほかはなかった。
「――
王はそっけなく答え、再び外朝に臨御すべく出て行った。
――トウリンキュウ?
宝余はわけもわからず、ただ相手の発した謎の言葉を口中で繰り返し、みじろぎもせずに座っていた。
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