第22話 魔性への誓詞


 この新しい冬淋宮の住人には、一つだけ小さな幸いが用意されていた。それは宮の中を自由に歩きまわれることだった。

 といっても、冷宮自体がごく狭いもので、正房から表門までは指呼の間しかなく、また自裁を恐れて木は一本も植わっておらず、土を固めた中庭には、名も知らぬ強靭な草がほうぼうに生えているだけであった。表門の外には、見張りの兵の気配がする。そして、すべてを失った王妃に対しても、陽の光だけは他と平等に降り注ぐ。


 ――それでも完全に室内に閉じ込められるよりはいい。正式に廃妃となれば、きっとそうした措置がとられる筈だから。女官も引き揚げられてしまうだろう。そうなれば、後は餓死か狂死しかない。


 宝余は朝食を終えると、飽くことなく宮の端から端まで逍遥した。

 ――あのへやにいたら、本当に気が狂ってしまう。

 表門の脇から陰気な正房を眺めながら、彼女はつくづくそう思った。


 正房の柱や板壁には、おそらく代々の住人の手になるのだろう、ひっかき傷のような落書きがいくつも残されていた。黒く塗られた柱に刻まれたそれらの文字は、この死んだような殿舎で唯一、生きて呼吸しているものだった。古典や自作の詩歌の一節、あるいは強烈な呪詛の言葉。


 はじめ宝余は、これらはてっきり匙か箸で彫られたものと思っていたが、その考えが誤りだとはすぐにわかった。ここでは食器にかぎらず、もろもろの道具は必要な時以外持たされることがない――これもまた自死を警戒してのことだろう。であれば、彼女達は自らの爪を使ってそれらを刻んだのだ。きっと彫るうちに爪は擦り切れ、ひび割れ、血がにじんでいったことだろう。かつては美しく磨き上げられ、また鮮やかに染められていたその爪が。


 昼でもなお薄暗い室内で、宝余は字を成している溝を、指で丁寧になぞりながら読んでいった。


 ――告天子ひばりは日輪に帰り、我が心は月輪に飛ぶ。

 ――壬午、告死使至れり。明朝死を賜うなり。願わくば、我が世子の健やかに育たれんことを。この母の昭雪しょうせつ(注1)を果たされんことを。

 ――我、炎中の魔性にお誓い申し上げる。蒼天に仇を為し、国君を呪詛し、祖廟を灰に帰せしめんと。この五体を捧げまつる。請い願わくばけよ。


 なかでもこの、最後の凄まじい一文を読んだ瞬間、怨念にあてられたかのごとく、宝余は全身の血が逆流し、危うく正房から走りだしそうになった。しかしどうやら耐えて、憑かれたように全ての落書きを読みきった。

 呪詛、怨訴、憎悪、悲嘆、残された黒い言葉の断片――。


 床近くの落書きを読むため宝余はかがみこんでいたが、ふと人の気配を感じて顔を上げると、百桃が飲み水の入った杯を捧げたまま、面をひきつらせて突っ立っていた。


***

注1「昭雪」…冤罪が晴れること。

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