第3章 黒い言葉
第13話 軍馬のいななき
烏翠は農耕のみならず、狩猟や放牧をも生業とする国であり、宝余の着る服も自ずから涼とは異なり、彼女の常服は白地に鮮やかな縫い取りや縞模様の装飾のついた衣に、圧縮した毛で作られた紺か黒の袖なしの上着を着け、銀でできた冠と耳飾りをつける。
宝余の養家は元高官とはいえ裕福ではなく、着るものは木綿がほとんどで、今身に着けている毛の上着は最初、あたかも自分も禽獣となったかのような違和感を覚えた。しかしそれは味付けの濃い料理と同様、少しずつではあるが慣れて行った。
ただ気になることはいくつもあった。まず、顕錬が、男性にしては食がやや細いのが気がかりだった。思い切って百桃に訊いたところ、彼女はひどく答えにくそうに口ごもり、ややあって
「大旗がご即位なさる前、用意されたお食事に毒が入っていた騒ぎが何度もありました。毒見役の女官が相次いで命を落とし、お食事をとるのも命がけだったのです。さすがに一時はお心が疲れ、ほとんどお箸をお取りにならない日もございました。今はそれでも大分召し上がるようにはなったのでございます」
「そう――」
宝余は、胸がつぶれる思いがした。王宮の陰謀渦巻く争いというものは、どこの国も同じものらしい。それは、短い間ながら涼の王宮に身を置いた宝余も良く知っていることであった。
顕錬が必ずしも平穏な少年時代を過ごしていないのは、夜の間、彼が悪夢でも見るのかしばしば魘されていることからも明らかで、たとえば、
――兄上、どうかお許しください。でなくば、私を殺してください。
と言いながら、彼が額に大きな汗を浮かべ呻き声を上げるのを側で聞くと、宝余もまた眠れなくなってしまうのだった。
ただし、悪夢に苛まれているのは妻もまた同じだった。宝余は何度も涼での夢を見ていた。女官見習いとして引き取られていた涼の王宮で、目の前でいきなり血を吐いて倒れた
さらに、もう一つの夢もあった。それはいつの頃からか繰り返し見る夢で、宝余が誰かに手を引かれて雪の中を懸命に逃げている、そして誰かの血が雪の上を点々と滴って赤い染みを作る――彼女は烏翠に来てから、この二つの夢を頻繁に見るようになっていた。
しかしこれらの気がかりのほか、宝余にとってより喫緊となっている問題が後宮の統括で、後宮の女官達は、表向きは王妃としての自分を尊重してはいるもののよそよそしさが感じられ、女官としての教育を受けたことがあるのみで王妃として輿入れし、諸事取りさばきに慣れない宝余は、女官に指示の一つを出すにも気疲れするのであった。
特に、入宮してからすぐに宝余も知ったことであるが、外朝では根深く激烈な政争が繰り広げられていた。先王の代には苛政と大規模な粛清が相次いだことで、ついには「来州の大乱」と称される叛乱を招き、それが涼国の介入を受ける原因ともなったのだ。
このとき受けた烏翠の大きな傷は現王たる顕錬の代に入っても癒えるどころか、膿を出し続けていたのである。官僚と王族貴族はおのおの、先王と太妃に組みする
しかし、宝余にはまだ救いも残されていた。初めから王妃寄りの態度を見せていた海星は除くとして、意外なことに、当初近寄りがたい印象だった百桃は、相変わらずむっつり顔だが宝余に仕来りを教え続け、接する態度も穏和ではないがそれなりに公正で、宝余は淡い光明を見出した。
――この調子でいけば、そのうち後宮も上手く切り回せるようになるかもしれない。
彼女が良い感触を掴んだ理由は他にもあり、この頃はぎこちないながらも、徐々に顕錬と打ち解けてきたような気がしたからだった。
相変わらず会話こそ途切れがちなものの、二人の間には諦めとも互いへの憐みともつかぬ微温な空気が流れ始め、宝余の弾く琴の難曲に顕錬が耳を傾けたり、書の名手である顕錬の墨跡を宝余が臨書したりすることもあった。顕錬の書は、その峻厳な外貌と性格には似合わず、豊かな蔡河の流れを思わせた。
――本当は、このような御性格の方であったのかもしれない。
宝余は、顕錬がいつもの皮肉な笑みでなく、彼自身の筆跡のように、いつかゆったりとした笑顔を見せてくれることを期待したが、そういう自分自身が心からの笑みを忘れていることには気づいていない。
そんな風にして、二人の心の距離が接近していったある曇天の昼下がり、顕錬と宝余は
東書房とは、もとは
ちなみに、西書房こと
ともあれその日は、二人とも入れたお茶が冷えるのもかまわず互いに何も言わず、訓練の叱声や馬のいななきにひたすら耳をすませていたものだった。
そのとき、「ああして馬の蹄の轟きを聞くと死を思う」――と、顕錬は宝余にぽつりと言ったのだった。宝余は王の心を読み取れず、そう思う理由を尋ねると、兵馬によって国が蹂躙される様を連想するからだ、と彼は答え、
「おそらくどの国の王も、あの音を聞いてそう思ったことはあるだろう」
と付け加えた。
顕錬は十五の歳から人質として三年間涼に留めかれていたが、その時のことをほとんど妻に話そうとはせず、妻もまた夫に対しことさら聞くことはなかった。
ただ、彼にとって人質として暮らす年月はあまりに重く、髭剃りの時とわずかな例外をおいて刃物を帯びることさえも禁じられ、またおそらくは様々な侮蔑や屈辱を何度も味合わされ、そうした体験が彼の持つ独特の暗さと頑なさにつながっていることは、宝余にもよくわかっていた。彼にとってたとえ人馬で踏みにじられなくとも、たった一人で国を背負って敵国と対峙していたその年月は、戦場での生活と変わりなかった。
――この方は、ずっとお独りだったのだ。
宝余は夫を痛ましく思った。王の弟でありながら虐待を受け、人質として異国にとらわれ、おそらく唯一の心の拠り所となっていたであろう人さえ失った。彼が表に出す冷淡さは、心をつよく保つための目に見えぬ鎧なのだ。
ただ、彼には申しわけないことではあるが、宝余が痛ましさを覚えるのと同時に、少しばかり嬉しくもなったのもまた事実である。彼がいささかなりとも本音を漏らしてくれる、それだけのことがどんなに自分の心を震わせ、安堵させていることか――当の本人は知る由もないだろうが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます