第14話 潮の香り、波のざわめき

 夕空の一角は一刷毛分の茜色が眼にしみるほど鮮やかで、宵の明星もひときわ美しく輝く晩だった。宝余が廊に出て空を見上げると、なつかしい人の顔が浮かんだ。少しは心に余裕も出来たのであろうか。


 ――父上。


 このごろ、何かにつけ涼の養父を思い出す宝余であった。とはいえ、二人は特に仲が良い親子であったというわけではない。

 もとより養父は近寄りがたい雰囲気をもつ寡黙な人間で、娘に対してさえ、特にうちとけた様子を見せることはなかった。むろん叱るときは叱り、ほめるべきときはほめ、決して教育をおろそかにすることはなかったし、宝余もそうした父の態度をあまり不思議とも思わずに育ってきたのだが、十歳を過ぎて実父の正体を知ったとき、養父の娘に対するどことない遠慮は、実父に対する遠慮でもあったのだと気がついた。

 それ以後も、父との間に熱い感情が存在することこそなかったが、あの海辺の、寂しい邸で二人身を寄せ合って暮らしていた日々が、今となっては懐かしく、慕わしいものに感じられる。


 宝余が六歳で学問を始めた頃、養父は手とり足とりしながら数冊の書物をあげてくれ、また回数こそ少なかったが、街で宝余や自分が使う文房をともに見繕ったり、海にまで散歩にでかけ、波で磨耗した石やうつくしい貝殻を、娘につきあって拾ってくれたりもしたのである。

 かつては天朝に派遣されていたほどの職歴を持つ高官が王の勘気を蒙ったということで、周囲の人々は敬意を表しつつも、養家からは一定の距離を置いていた。そのようななかにあって親子二人は、さして言葉を交わさずとも、背中合わせに伝わる互いのかすかな温もりをよすがに生きてきたのであった。


 それだけに、烏翠に嫁ぐ際の父との別れはさすがに辛く、養父と二度と会えないであろう悲しさは、宝余がいままで経験したことのないほどの感情であった。別れの挨拶をする際、養育の恩を謝す言葉を述べた宝余は、養父の顔を見上げ、胸をつかれた。


 ――随分お年を召されたのだ。


 通いで家事を手伝ってくれた頼児の母親がいたとはいえ、まがりなりにも男手ひとつで女子を育てた苦労は、養父の顔の皺にもくっきりときざまれていた。何度も喉を詰まらせながら別れの言葉を並べた宝余に、彼は哀しげな視線を返し、ただ「烏翠の王によくお仕えなさるように」といい、雲上の人となる娘に対し丁寧に拝礼したのである。


 ――本当はあのとき、申し上げたいことがいくらでもあったのに、いざとなると半分もうまく話せなかった。今もお元気でいらっしゃるのだろうか。お風邪など召されていないだろうか…。


 だんだんと日の光が薄れ、かわりに星の光がまさってきた空を見上げ、宝余はひとりごちた。

 会うことができぬならばせめて書簡でもと思うのだが、宝余が嫁ぐ際に、父を含めた涼への文通はあえてったために、それも叶わない。無理を押せば望みもかなうだろうが、そのために新たな懐疑の種をまくことは、自分はともかく烏翠にとっても涼にとっても、何より養父にとって得策ではないように思えた。

 ――せめて便りがない、すなわち私が無事で生きているということを、慰めにしていただきたいものだけれども。


 宝余は苦笑し、袂から浅黄色の小袋を引き出した。中を開けると、掌のうえに貝殻がいくつか転がり出てくる。

 ――頼児。姉さんはあなたが想像もできないくらい、遥か遠くに来てしまったのよ。

 養父の家を離れる日、自分が乗る輿を見送る行列のなかに、眼を怒らせ母親の袖につかまっていた少年のことを思い出した。入宮の準備であわただしいままに彼とは十分な別れも言えず、宝余はただ輿の上から少年の姿を網膜に焼き付けることしかできなかった。


 この地には、潮の香りも寄せる波のざわめきもない。かの地にいたころには何とも思わなかった諸々のことが、今はただ懐かしく慕わしい。もう自分は烏翠の王妃なのだ、過去を振り返ってはならぬのだと思いつつも、つい心は揺れ動き、来し方を振り返ってしまうのだった。

 彼女はそっとため息を漏らすと、夕餉の膳の待つ椒房しょうぼう(注1)へ戻っていった。


***

注1「椒房」…皇后の居殿。椒を壁に塗り込め温かさを保ったり、子孫繁栄を願ったりしたことに由来する。

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