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それから十日経った。
私は忙殺されていた。色々心当たりはある。
まず、例の日の翌日から圧倒的に男性客が増えた。原因は、サフィを呑みに誘った日に元近衛軍団の溜まり場である「竜の角」をたまたま選んだからだろう、その時に見たことのあるような顔がちらほらいる。近衛騎士の転職先だろうか、配達業用のサヴォラ――小型飛行機で乗り付けてくる者もいた。中には、私に向かって「テーラ姐さん」と宣う輩まで存在していた。しかし、残念ながら弟が新たに出来た覚えは一切ない。頼むから就職相談や恋愛相談を持ち掛けないで欲しい。近衛騎士なんて皆中等学舎騎士課程卒で、更にその中から選ばれた存在なのだ、区別は消えたが元貴族だし家柄と名前がある、サヴォラ免許ぐらい必ず持っている、だから、シルディアナに数多存在する運送業者にでも行けばいいし、名前や近衛の話を出せば良縁にあり付ける確率だって高いはずだ。結婚にしたって就職にしたって、忠誠心は本物だし。
次に、近いうちに行くと予告していた「竜の角」料理人のハルフェイスが来店したのだ。一度目は客として、色々な種類のパンを大量に買い込んで帰って行った。二回目は何と取引相手として、料理人の制服に身を包んで来た。要件はこうだ――ここのパンを、うちの店、竜の角に是非置かせて頂きたい、と考えている、女主人と料理長に話は通っている。頭が真っ白になった私は取り敢えず、「彩浪亭」のパンに関する全権を掌握している父を呼んだ。その父が二つ返事で了承し、酒場との交渉や調整という昼の二刻から四刻で処理する早朝仕事を私に全部振った。パン作りだけやっていればいいわけではなくなった。眠い。
三つ目、アリスィアが竜と一緒に来店した。名前はウィータらしい、親愛のしるしに、いつも後頭部で纏めている私の濃い金色の巻き毛はもぐもぐされた。あんたは馬じゃなくて肉食の竜でしょうと思わずぼやいたら、彼女に大爆笑された。それから、一緒に色々な話をした。彼女はシルディアナの今後の政治に関する話や西方の国エルフィネレリアの話、すぐ東の共和国ヒューロア・ラライナの話を沢山してくれた。自他ともに強大な力を持つと認めている半ば伝説のような存在だが、思っていたよりも表情豊かで親しみやすいラライーナである、ふとした時の表情はまだどこか幼い。ウィータはついでに、煮込み挟みパンも十個ほどぺろりと平らげた。当然、竜の見物客がパンを買っていった。竜の来る店として噂が広がったらしい、客足も更に増えた。疲労が抜けない。その日、アリスィアを見て何かを忘れているような気がしたけど、思い出せなかった。かなり重要なことだったような気がするけれど。
そして最後。サフィルスが居座るようになった。
開店から決まって三刻後にはいつの間にか店内にいる。それも毎日、閉店後は夜の三刻まで居座って、私や父や母の試作品を平らげて、意見を求める両親に時折欲しい風味を言って、帰る。意見を求めたい時に丁度いいからと試作品を持ってくる両親も両親だけれど。
今日もいる。
「テーラ、今日はいつ終わる? 夜三ぐらいからぶらっと出掛けない?」
「……そんなことよりあんた、お金ないでしょう、仕事探さなくていいの? いらっしゃいませ、お選びのパンを確認しますね!」
「うん、中央の職業斡旋所? 行ったよ? だけど、私じゃあやっぱり駄目だって」
「竜ワイン煮込みパン二つ、袋入りでどうぞ――あんた、基本何でも出来るのに」
「顔が駄目だって」
黒い眼帯からはみ出ている火傷痕は確かに、色々事情を推察出来るからこそ、職場の人間環境に大きく影響を及ぼしかねない。遠ざけたり、冗談半分にからかったり、罵倒したり、陰で色々ないことないこと言ったり、おそらく様々なことが待ち受けているだろう。彼自身も他の者も変な方向へ曲がってしまったら、元に戻るのに時間がかかる。雇う方もそういう面倒事は避けたいのだろう……彼自身が悪いわけではないのだけれど。
「顔が見えない仕事とかあるでしょ、力仕事とか――ありがとうございました!」
「それがね、経験者優遇だって」
「……あ、そういえば騎士だったのだから、中等学舎の騎士課程を卒業した時にサヴォラ免許も取れていた筈よね、サフィ?」
「左目がなくなってから剥奪された、運転するには危険だから、って」
なんと、この幼馴染はサヴォラの運転免許まで失っていたらしい。しかし、考えてみれば確かに、左目が見えない状態で空に浮くとなると、死角から飛行物体が迫ってきた時に今度こそ命を失う羽目になるかもしれないのだ。
「次のお客様、どうぞ! お選びのパンを確認しますね……サヴォラ事故で死ぬ人もいるしねえ」
「シルディアナ放送でもたまに流れているでしょう?」
怖いよねえ、と呑気な声で言って、サフィルスは爽やかに笑った。何処からその余裕が湧いてくるのだろう、と、私は代金を受け取りながら思う。
「凄い余裕だね、サフィ――はい、竜肉煮込みパン四つとフィークスまるごとパン三つ、籠はおまけです!」
「いや、ここまで来ると私もいっそ清々しい気分になってきてしまってね」
「だからって何でここに来る必要があるの――ありがとうございましたー!」
「……何となく、おっぱい?」
「今すぐ帰ってどうぞ――ああ、ごめんなさい、次のお客様」
慰めて欲しいのか。いや、こんなことを言う奴にはやらないぞ、絶対にだ。
しかし、これは酒場や店の裏で繰り広げられている会話ではなく、パン屋「彩浪亭」営業中に押しかけてくるサフィルスと接客中の私との間で交わされるもの。先に話し掛けてくるのはいつだって彼の方である。他の客からの生ぬるい目線が滝のように容赦なく降り注いでくる。滝なんて見たことないけど。私は羊肉と玉葱の甘辛煮パイを五つ数えてイオクス材の籠に手早く入れ、目の前の若い男性に手渡した。
「お客様の前でなんてこと言うの――はい、ありがとうございました!」
「私だって客だよ?」
「確かに毎回何かしら買ってくれるのはありがたいけど居座りすぎでしょう? ――次のお客様、お勘定どうぞ!」
「そこはほら、君と私との仲だからね」
「お選びのパンを確認しますね――はいはい、幼馴染でしょ、幼馴染」
「つれないなあ、もう」
ただでさえ忙しくなっているというのに邪魔をする気だろうか、この男は。いや、この店が客自らパンを選んで持ってきてくれる方式で本当に良かった。私は応対している老婦人に米粉パン三つの代金を告げ、生暖かい視線とぶつかった瞬間に若いわねえと言われ、苦笑いする羽目になった。その勢いで彼を睨みつける。
「あのね、サフィ、今私はね、仕込みも勘定も酒場との取引も全部やっているの、忙しいの、ただ喋りに来ているだけだったら手伝ってよ、お給金だって父さんに掛け合うから――お待たせしました、米粉パン三つ袋入りで、どうぞ」
「……えっ、私が何を出来る?」
ちらりと一瞥すればサフィルスが驚愕の表情で私を見つめていた……仕事を探しているのではないのか?
「ありがとうございます、またのご利用を――こっちはね、正直ね、喋る暇が惜しいくらい忙しいのよ、あんた見えてないの、目の前の勘定の行列?」
かくなる上は最終手段である。私はお釣り用の小銭があとどれくらいあるかを数えながら厨房に向かって声を張り上げた。
「次のお客様、少々お待ちくださいね――父さん、ちょっと来て!」
「どうした、テーラ」
「彩浪亭の実権を握るお父様、この文無しやる気ありのサフィルスを働かせてやって」
手を布巾で拭きながら此方へと顔を出した父は、退役しているとはいえ騎士相当のがっしりした体格を持つ男――しかも名のある元貴族――に向かって指を突きつける私を見て、絶句した。
「元貴族だとか考えなくていいよ、どうせ今は皆平等に市民だし、私との仲だ、って言い張るし、体力と忠誠はあり余っているし、最近は闇精霊の手も借りたいほど忙しいでしょ」
「だがしかし、名のあるランケイア氏族のサフィルス殿を働かせるのは流石に……」
「だから関係ないって、市民、市民、平等! それじゃあ他家族の人間との契約になるから、雇用許諾書も準備して宮殿に届けてお給金を出せばいいでしょう、サフィだってとっくに成人した二十二歳だし問題ないじゃない」
「ううん、しかし、ランケイアの旦那様は大丈夫なのか、がなあ……」
「サフィは求職中よ、乗ってくれたら父さんに平面映像機買ってあげる、大きいやつ」
父の顔が輝いた。
「よし、行きましょうか、サフィルス殿! うちで働きましょう!」
「えっ、まっ、待って?」
右目をめいっぱい見開いたサフィルスの腕をむんずと掴んで立たせ、騎士顔負けの腕力を発揮しながら、父は元近衛兵をずるずると引きずっていく。
「えっ、私を売ったのか、テーラ? ねえ、私は平面映像機と同じ価値なのか、テーラ?」
「よかったねサフィ、仕事が見つかったじゃない」
「ちょっとテーラ、待って、あっ、旦那様、ちょっと――」
「ついでに言うと、売るとはちょっと違うと思うのよね、私は映像機もサフィも父さんにあげたのだから」
勘定台に頬杖をつきながら、私は店内の客全員と共にぬるい笑みを浮かべて、彼が厨房へ消えていくのを、その扉が閉まるまで見送った。
「一度に辛い思いし過ぎたのだから、ちょっとは生ぬるい場所に居たっていいでしょ、ねえ」
そう呟いてから勘定台の向こうを見ると、呆然とした表情の少女がすぐ目の前、勘定待ちの列の先頭にいて、たった今私の幼馴染が消えていった扉を見つめていた。
「……いらっしゃいませ、ご注文はお決まりで?」
声を掛けた途端、華奢な肩がびくりと跳ねて、長くてふわふわの砂色をした巻き毛が揺れる。垂れ気味の大きな目は青灰色、肌触りの良さそうな丈の短い絹の上着、シヴォン共和国で流行りのベルトが太いチュニック。繊細で美しい金装飾の腕輪が嵌まっている両手が持つ「彩浪亭」と刻まれた白いエルカ材の盆の上には、同じくシヴォン共和国アスヴォン高原産の林檎のパイと、シルディアナ国花ロウゼルから抽出した香りを閉じ込めたグラン・フィークスの果肉入りのパンが乗っている……どちらも高級どころ、甘いもの。裕福な育ちか。
「あの……あの、サフィルス様がここに居ると聞いて伺ったのですけれど」
その瞬間、私は猛烈に後悔した。父に引き取らせたのは失敗だったのではないか、と。
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