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 南街区大通り中、という文字が刻まれた停留場所から、乗り合い竜車に乗り込んで半刻程で、私達は中央街区凛鳴広場、「彩浪亭」の近くまで戻ってきた。乾季だからか空気はさらりと乾いていて、シルディアナのような暑い地方でも夜はある程度涼しい。胴衣の上に薄手の上着を羽織って丁度良いぐらいだ。


 竜車の先頭で大人しく出発の合図を待つ草食竜の鱗を軽く叩いてから、二人分の運賃をその長い首に掛けられた料金袋に入れた。竜は喉の奥できゅるりと可愛い音を立てて、私の首筋に額を擦り付けてくる。


「はい、またね」


 竜は人の言葉を解する。硬い頭をめいっぱい撫でながら言った私に、人間が舌を打ち鳴らすような「カカカカカカッ」とかいう上がり調子のご機嫌な声で可愛く応えてくれた。私は彼らの言葉がわからないけれど、伝わってくるものは必ずあるのだ。


 サフィルスと二人で歩き出す。シルディアナの群主や市民がしょっちゅう集結している中央広場に比べたらいささか小さい凛鳴広場だが、千百八十年前の賢王エーランザ・シルダの像が存在しており、彼女を中心として魔石動力の噴水群が形成されていた。長椅子が幾つも設置されているが、夜を見つめる女王の膝元には誰もいない。水ばかりが賢王の耳を楽しませていた。


「テーラ」


 サフィルスが呟いた私の名前が石畳と噴水の空間でやけに響いた。


「どうしたの?」


「ちょっと休憩していこう」


「やっぱり飲み過ぎた?」


「ううん、気分は良いよ、風に当たりたいと思って」


 私の返事など待たずに、彼はエーランザの前まで歩いて行って、噴水に背を向けて設置されている長椅子に腰掛けた。流れで隣に腰掛けて気付いたが、彼の方を見ると、眼帯がまず目に入ってきて、ぎょっとした。


 死角に座ってよかったのだろうか?


「君だから私は言う」


 少し距離が空いた右隣から静かな声。


「何かやらかしたの」


「もうやらかしまくったのは話したでしょう……寧ろ、今からまたやらかすのかな」


「何をする気?」


 問うてもそれっきり、静かな呼吸音が聞こえてくるだけだった。私には、眼帯と、そこからはみ出ている酷い火傷の痕しか見えない。


 何を考えているのだろう。


 そして私は今こそ、彼が失ったと信じている命の在処をそっと教えるべきではないのか。


 そう思った時に、口を開いたのはサフィルスの方だった。


「私はもう酔っていないよ」


 そんなことぐらいわかる。自身を指し示す言葉が、平素の「私」に戻っているからだ。


「ねえ、眼帯の下が見たい?」


「何でまた――」


 言いながら右隣を見て驚いた。彼が体ごと私の方を向いている。


 普段の彼は軽率にそんなことをしない。中等学舎の時から、目線だけを寄越したり、首だけで後ろを振り返ったりすることが多くなったのだけれど、それはあらゆる方向から危険に対処する必要があるという戦士の本能を学舎の騎士教育で呼び起こされたからだ。その頃から彼は貴族の子息らしく己のことを「私」と呼称するようになっていったのだけれど。


「姉上しか見ていないよ、傷は……シルワ――ああ、婚約者だった子なのだけれど、彼女に訊く前に父君である旦那様が頼むから見せてくれるなと仰せになった」


「だから何で私なの」


「幼馴染だから?」


「いや、何で今、聞いたの?」


「……だって君だし」


「わけわかんない」


「信頼しているからね、甘えさせてくれるし」


「あんたもうそれ結婚出来ないわ」


「……ふふ、これは手厳しい」


 声を上げて、サフィルスが笑った。雨季に吹き始める種蒔き風の如く、それはふわりと石畳に響いて、方々にかそけき光を粉のように散らす生まれたての風の精霊が全部浚っていった。


「行き遅れかな……」


「婿に?」


「そう、もう既にいい年なのにね」


「……だったら、私なんてどうなるのよ」


 風の精霊の飛び去る先を目で追いながら、私は思わず溜め息をついた。


「おっと、君の方が三つほど年上だったね、そう言えば」


「ほんの二十二歳で行き遅れとか言わないでくれるかなあ」


「貴族は早かったのだよ」


「もう違うでしょ」


「そうだけど」


 パチンという微かな音がした、何かが外れたような。もしかしてという予感がして右隣を見れば、サフィルスの眼帯が緩んでいて、次の瞬間にそれは取り払われた。


 たった一つだけの真っ直ぐな凪の海が夜空の下で青く私を見つめている。


 赤黒い火傷の斑が、火吹き山の吐き出す燃える水が如く、浮く。その中に落ち窪んだ箇所があり、中央で上下を溶接された瞼が一筋の線を引いていて、開けばそこにあった筈のもう一つの眼球は、完全に失われていた。光精霊殿での治癒が間に合わなかったのだろうか、傷から腐り落ちるよりは、と摘出したのだろう。


 彼が両の目で世界を見ることは二度となくなっていた。


 もう双眸とは言えないのが惜しいほど綺麗な色なのに。


「酷いでしょう」


「サフィ」


「右目が疲れて仕方ないよ」


「サフィルス」


 思わず、煮え滾った痕を右手で撫でていた。彼はくすくす笑った。


「くすぐったいよ、テーラ」


「……怪我ばっかりして」


「怖くないの? 気持ち悪くないの?」


「悲しいよ」


 声が震えた。


「悲しいよ、サフィ」


 綺麗な色だったのに。


「サフィ、サフィルス」


 幾ら嘆いたって戻ってくるわけなどないのに、視界が滲む。両頬を両手で包み込み、撫で、目元に触れ、顎の骨をなぞり、私はサフィルスの頭を胸に掻き抱いた。


「やめてよテーラ、せっかく僕、笑ったのに、何で泣くの」


「かまやしないって今朝も言ったでしょ、こんな時くらい、こんな時くらいさあ……」


 こんな時くらいみっともなく嘆かないで、どうするのだろう。


 幼馴染としての独占欲とかそんなものなんて、弾けて全部吹き飛んだ。せめて風精霊の糧になれと思った。


「私だって泣いたっていいでしょ……」


「君だってわけわかんないよ……」


「うちのパン食べただけで元気になれるわけないじゃないこんなの……こんなの……」


「君だから言うけど……僕、他人だからね……」


 太い腕が二本とも背に回ってきた、震えている。私も震えている。


「他人に向かってこんな……胸を貸すような真似……しているのだから、感謝しなさいよ……あんた絶対に私のおっぱい大好きでしょ……」


「やめてよ……ぶっこんでこないでよ……面白いのか悲しいのか、わけわかんないよ……」


「だって、泣くの、しんどいもん……」


「泣きながら笑う方が、もっとしんどいでしょ……おっぱい好きだけどさ……」


「これであんたも同罪じゃない……」


 もぞもぞと胸元の頭が動き、涙に塗れて真っ赤に充血した右目が私を見上げてきた。


「君の作るパンがふわふわなのだから、君だってふわふわで気持ちよくないわけがない」


「あのねサフィ、私、今、最高にがっかりした」


「褒めているのだけどなあ、何だか元気が出たし」


「元気出して欲しいって思っていたけどそんな元気の出し方は正直ないわ、例え幼馴染でもこれはないわ」


「君と私の仲じゃないか」


「涙返してくれる?」


「最初にぶっこんできたのは君でしょう、テーラ」


「とどめを刺したのはあんたよ、サフィ」


 平素の「私」が戻ってきている、これはもう大丈夫な証拠だ。腕から力を抜いたサフィの身体をぐいっと押し返し、私は目元を擦って溜め息をついた。


「擦ったら赤くなるから駄目だよ、テーラ」


「あんたの方が酷いからね、今日ずっと泣いていたじゃない」


「えっ、うそ」


 彼が慌てた様子で自身の右目に触れるのを横目に、私は立ち上がる。


「もう何だか色々いいや、帰って仕込みする」


「うん、帰った方がいい、ちょっと休憩しすぎだよ」


「あんたが誘ったからでしょうが」


 私は思わず苦笑する。サフィルスが音もなく立ち上がったのが、視界の端に見えた。顔が酷く変わってしまっても、彼の出す明るい声は以前と変わらず朗々と鮮やかなままだった。


「……今日君に会えてよかった、ありがとう、テーラ」


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