3


「それで、何て言われたと思います? 怖い、たったこれだけですよ、たったこれだけ!」


 私はサフィルスを呑みに誘ったことを早くも後悔し始めていた。


 酒場「竜の角」は今日も酔客で賑わっている。雨季の真只中、昨年の八月に起こったアルジョスタ一斉摘発事件のせいで“一身上の都合により”閉店していたが、革命後の夜、何処かに逃げおおせていた女主人と料理長が戻り、営業はしれっと再開された。再開当初は血濡れの杯とも揶揄されたが、料理長の料理が酒によく合う絶品ばかりだということが人伝に広まり、今は雨季を待ち侘びる四月、これだけの客が集まるようになった。私も噂を聞いて、かねてより行ってみたいと思っていたところだったから、丁度よかった。


 それに、新しい給仕の制服は可愛い仕立てだ。北西に位置する貿易大国シヴォンでの流行りを取り入れた太いベルトつきのチュニックで、上下で分断されており、蹴回しがふわりと広がる。私も欲しい。似たようなものが欲しい、あれ可愛いよね、と、どん底を通り越して自棄気味のサフィルスに話題を振ってみたら、何と、元婚約者が同じようなものを欲しがっていたから似たような仕立ての服を結婚支度として贈呈していたらしい。


 私は彼の心に仕掛けられた魔法罠を見事に踏み抜いた。そこは謝りたい。


 だがしかし、あろうことか彼は、初っ端から大陸で一番強い酒――草食竜の唾液に漬け込んだグラン・フィークスの果実酒を注文した。やめろと言っても間に合わず、一気呑みである。当然酔った。そして、厨房から出てきた料理人の若い男性を見た瞬間、叫んだ。


「ハルフェイス!」


「サフィルス!」


 近衛軍団の同期だったらしい。そして、その声に振り向いた周囲の客の半分も近衛軍団だったらしい。


 突然の宴会になった。そして、宴会はサフィルスの涙にまみれた葬式場と化した。死んだのは己の矜持と恋心らしい、目の前にいる本人曰く。店に入ってから半刻も経っていないのにこれである。年端もいかぬ少女に一方的にやられたことから話は始まって、左目を怪我して、婚約者とその父との話に移行し、今に至る。


 まあ、仕方ないが。仕方ないが、完全に放置された私は途方に暮れて、グラン・フィークス酒が注がれたグランス鋼の杯を弄んでいた。


「あんなになっちゃって……連れて帰るの、誰だと思っているのかなあ、サフィ」


「あと一刻もしないうちに潰れるわよ、彼」


 呟いたら、横から凛とした女性の声が聞こえてきた。振り向けば、顎のあたりで真っ直ぐに切り揃えられた美しい黒髪がまず目に飛び込んできた。少し吊り気味の二重瞼が縁取る目は鳶色、怜悧な美貌は人を突き放すかのように輝いていたけれど、こちらを向いて不意に微笑んだ口元に私はついうっかり見惚れた。珍しいことに、竜と言葉を交わす種族ラライーナだ。よく見れば、その服装も彼ら一族独特の、袖のないチュニックと腰布だった。


「入ってきた時から見ていたわ、彼の方が誰かに似ていたから」


 そう言って彼女は、今度は陛下、陛下、と連呼し、ぐずりながら酒を呑み続ける……否、酒に呑まれ続けるサフィルスをじっと見つめる。そして自らも杯を傾けた。私は何も言えずそれをぼんやりと眺めるしかない。


「陛下、か……ううん、似ているのだけど、誰だったかしら」


 その呟きに、私は傍らの彼女を振り返った。到底悲しいとは形容出来そうにない微妙な表情なのは、何故だろう?


「サフィ……彼に姉や兄ならいるけれど」


「姉……名前は?」


「エレミアさんと仰る方」


「エレミア……エレミア……ああ!」


 杯を置いた右手で軽く机を叩いて、彼女は何やら得心した表情になった。


「エレミア・ランケイアが一番心配していた末の弟か、そうか、髪の色が一緒だわ」


「あら、お知り合い?」


「そう、エレミアとはよく話が合うから……おっと、名乗るのを忘れていたわね、私はアリスィア」


 竜と言葉を交わす種族がいる、ラライーナと呼ばれているけれど、その中でも唯一六属性全ての術を行使出来るレフィエール家の直系第一子、アリスィア・レフィエール。その名が彼女のものだった。ハル、ハル、と料理人となった同期の愛称を連呼するサフィルスを見ながら、私も自己紹介をした。テーラ・サルヴァティオ、中央行政区のパン屋「彩浪亭」の一人娘、あそこの呑んだくれとは幼馴染。


「エレミアさんとお知り合いということは、あなたはもしかして」


「アルジョスタには関与していたけれど、政治やらに関してはそこまで深くはなかったかな……寧ろ、このシルディアナに安置されていた剣を破壊する為に私は竜の一族から遣わされたようなものだから」


「え、剣を破壊するって、あれはシルディアナの動力源だったのだけれど」


「あれねえ、簡単に言うと、呪いの剣だったの」


「うそ」


「本当よ」


「え、呪いの剣って、どういう呪いなの?」


 何となく尋ねておいた方がいいような予感がした。途端に、相手の顔、細く優美な曲線を描く眉の間に皺が寄る。


「簡単に言うと、打たれてから百年経ったら、とある場所に入った特定の血筋を持つ人の記憶と自我が消滅するの」


「何それ……そういう人、今いるの?」


 訊けば、アリスィアは苦い表情で頷いた。朝にサフィルスが言っていた“ちょっと治らない傷”という言葉が今になって思い出され、そしてやけに引っかかる。


「いる、色々試してみたけれど、私の持っている光の力じゃ治らなかったから、多分誰にも治せない」


「治らない……ねえ、アリスィア、ちょっとこっちに耳を寄せて貰って構わないかな」


「うん、どうかした?」


 私は素直に寄せられた耳に向かって囁いた。


「サフィルスのお姉様……エレミアさん、治らない傷を抱えた恋人がいらっしゃるみたいなの、もしかしてあなたの言った人かと思うのだけれど」


 アリスィアが弾かれたように肩を跳ねさせて、私を振り返る。彼女の右手の中の杯も跳ねて中身がちょっとだけ散った。


「あなた――」


「触れて欲しくないことだったかな、ごめんなさい」


 彼女はエレミアと知り合いだという。そして、呪いにかかった人の治癒に失敗したという。エレミアはサフィルスの姉だ。サフィルスは言う、エレミアには治らない傷を抱えた恋人がいて、その人の傍に居たいと願っている、と。


 動揺して浮かせてしまった左腕を下げて、目の前の特別なラライーナは咳払いした。


「いや、そうじゃないわ、大丈夫よ……ただ、奇特な縁だと思っただけ」


「じゃあ」


 今度は私から彼女の耳に唇を寄せた。サフィルスのことを考えた、彼は左目を失い、職を失い、婚約者を失い、守ってきた大切な人を失っている。


「あなたが剣を壊す為に遣わされてきた人なら、サフィがさっきから連呼している人が今どうしているかも知っているな、って、今、思ったの……さっきサフィを見てすっごく微妙な表情をしていたでしょう?」


 アリスィアは無言で頷き、私はもう一度吐息をお見舞いした。


「無事なのね」


「諸事情でエルフィネレリアにいるわよ」


 彼女と視線が合った。私達は同時に元近衛軍団の方を見て、それからくるりと背を向け、ひそひそと話すことにした。杯の中のグラン・フィークス酒をほんの少しだけ口に含むと、甘みと酒精が口内にぶわりと広がって、芳醇な果実の香りが鼻腔を突き抜ける。


「……後でサフィに教えてあげよう」


「……因みに、助け出したのは、近衛兵十人に打ち勝った年端もいかない一人の少女だということも付け足しておくわね」


「……そこも知りたがるかな、やっぱり」


「言ってもいいけれど、酒が抜けてからにした方がいいわ、本当に近しい人だけしか知らないから」


「そうする、ありがとう」


 私達は同時に手に持った盃の中の酒をぐいっと飲み干した。酒精がつーんと鼻に抜けて、ふわりと心地好い浮遊感が体を包む。


「本当にありがとう、アリスィア」


「どういたしまして、憂いが少しでも晴れるといいわね」


 そして、お互いに視線を合わせ、私達は笑いあった。


 それから暫くして、アリスィアは私に向かってこう問うた。


「……ところで、さっきからサフィルスに関する話ばかりだけれど、あなたは彼をどう思うの?」


「こういうところで吐き出して楽になって貰いたいなって」


「腹の中身も?」


 彼女がにやりと笑う、思っていたより冗談の分かる人らしい。


「……そっちは勘弁して欲しいかも、担いで帰るのは――」


「――あなたよね」


「それ」


 パン屋の仕込みの時に悪臭の染みついた服を着ていたくない。アリスィアがくすくす笑う傍らで私は思った、そろそろサフィルスから酒を取り上げなければいけない。そして、私は明日に向けた仕込みを今夜中に行わなくてはいけない、明日は休んでいいよと両親にも言われているから尚更だ。


「ほら、サフィ、その辺にしておきなよ、帰るよ」


 そう言いながら半分机に突っ伏している彼に近付いてその右手に持っているグランス鋼の杯を取り上げると、甘えるような視線が一つだけ涙をいっぱいに湛えて、私をじいっと見上げてくる。美しく乱れた金糸は何ともまあ、煽情的だ。女性があまりいない酒場で良かったかもしれないと思ったけれど、駄目だ、顔の左側について加味するのを忘れていた。


「うん、でも、テーラ、君も呑もうよ」


「もう呑んだ、グラン・フィークス酒を一杯で十分」


「ええ、でも君持ちなのに君が飲まなきゃ――」


「私まで馬鹿みたいに呑んだら誰があんたを連れて帰るの? しかも真夜中には運行していない竜車の停留場所まで引っ張って行くわけにはいかないでしょう?」


「はい、ごめんなさい」


「素直でよろしい」


 サフィルスに関しては、今はもう見ているだけで十分だ。ほんのり薔薇色に染まる右頬に長い髪が何本かぱらぱらと掛かっている、そして凪の海の如く据わった目。もう散々吐き出しただろうから、そろそろ連れて帰ろう。右目が真っ赤になっているから冷やしてやらないといけない……ああ、でも彼は水使いだから自分で出来るだろうけれど。


「行くよ」


 どっしりした左腕をぐいっと引き上げたが、その左腕はあっという間に抜かれて私の右肩をがっしり掴んだ、支えにするつもりらしい。その時、私は気付いた、周囲に注目されている。


「あれ、サフィ、帰るのか」


 ハルと散々呼ばれていた「竜の角」厨房の料理人――ハルフェイスが、呼んだ相手ではなく私を見ていた。サフィルスが立ち上がり、案外しっかりした声で応える。


「うん、テーラを付き合わせてしまったから」


「……お前、全然その人と喋ってなかったぞ?」


「あっ……いや、つい、ここで……皆に会うことが出来て、うわあ……」


 そう言って大きな右手で顔の右半分を覆うその姿に、思わず笑ってしまった。


「いいよ、サフィ」


「……ごめん」


 武骨な指の間から存外神妙な声が漏れてきた。どうやら、一気に酔いが醒めたらしい。


「会えてよかったじゃない」


「……うん」


「普段からここに居そうだからさ、時々来れば会えるね」


「……うん」


 私がそう言うと、眼帯の下から酷い傷がはみ出ている左側からでも、彼の唇が引き攣れながらも柔らかな弧をふわりと描いたのが見えて、ああ微笑んでいるのだ、とわかった。


「ところで、かなり呑んでいたけど、普通に歩けるみたいだね、サフィ」


「私は、酒は強いよ?」


「じゃあ、年頃の女の子の肩を借りるのはやめようか」


「……はい、ごめんなさい」


「素直でよろしい」


 左腕が退いて軽くなった。筋力が多少衰えたとはいえ軍人だったのだから一般人の取り扱いには気を付けて欲しい。私は腰の袋から飲み食いに見合う金銭に色を付けて、ハルフェイスに差し出す。


「近衛の皆さんに何か美味しい物でも作ってあげて、私は「彩浪亭」のテーラ、サフィとは幼馴染」


「……ああ、あの「彩浪亭」の……ありがとう、サフィルスの同期のハルフェイス、新人だけど料理は好きだよ」


 困り眉の料理人は人の良さそうな笑みを浮かべ、褐色の短い髪を少し掻きながら貨幣を受け取った。


「中央行政区に来る時は、うちのパン買ってね」


「知っているよ、近衛の新人に遣いに行かせて食べていたから……そこの娘さんだったのか」


「あらまあご存知、では今後ともご贔屓に」


「中央行政区の「彩浪亭」のパンは皆大好きだからね、近いうちにまた行くよ、僕も料理の参考にしているし」


 嬉しい話である。


「いつでも待っているわ……さあ、帰るよ、サフィ」


「うん」


 あらかた酔いが醒めてきたらしいサフィルスは、幾らか憂いの晴れた表情をしていた。


 酒場「竜の角」の壁の高いところに掛けられている時刻板を見れば、ちょうど日没から四の刻を過ぎたところを示している。この時間帯に帰れば、明日のおすすめパンの仕込みもじっくり出来るだろう。周囲の元近衛軍団に挨拶をしながら、かき入れ時だからと開け放たれている扉をくぐろうとした時、後ろから凛とした声が追いかけてきた。


「テーラ」


 アリスィアだ。私は振り返った。


「今日はありがとう、色々わかったわ」


 その視線と、言外に込められた意味を何となく悟って、私も頷き返す。きっとこのラライーナは解体されたアルジョスタの面々に元近衛軍団――宮殿へと出向していた貴族の子息達についての話をするだろう、どんな状況にあるのか、何に戸惑っているのか、後はこの酒場で訊き出すだけだ。そこから導き出せるのはきっと、彼らが革命にどのような印象を抱いているのか、これからどういう風にそういう一族と折り合いをつけていくか、という課題だ。


「中央行政区に来たら「彩浪亭」にも寄ってね」


「是非、必ずまた会いましょう」


 彼女はすぐにそう返して、微笑みながら手を振ってくれた。


 サフィルスが不思議そうに私を見ていた。


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