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 中央行政区、凛鳴放送を流す竜の彫刻が鎮座する噴水。その双眸が睥睨するのが私と両親の経営するパン屋「彩浪亭」だ。竜は肉食な上にパンなど食べないが、いつもいつも、本日のおすすめの棚を凝視している。ただし彼は動き出すことなど一切ない。何せ彫刻なのだから。


 竜がこれでもかという程に睨んでいる今日のおすすめは、草食竜の肩肉のワイン煮込みを挟んだ白パンだ。柔らかくてきめが細かく、ワインソースをしっかり吸うこいつは、開店からたった一刻であっという間に売り切れる。生産数は百。


 さて、本日のおすすめ一番乗り、且つ来店第一号の客は、私達家族に向かって挨拶をしてから流れるような動作で店内のイオクス材の椅子へ優雅に腰掛け、私の顔をじっと見ている。毎朝ここに来る時は、首から吊って胸を覆い隠す下着の上にシヴォライト鋼の重たい胸部装甲を着用し、近衛兵の制服である軽くて短いローブを羽織り、金属の脛当てのついたブーツを履いていた。それに、非番の時は昼を過ぎてからここに来たり来なかったりする彼だが、今日は何と、早朝から非番の格好でこんなところに居るのだ。


 これは一体どうしたことだろう? そう思いながら相手の顔を凝視していると、流麗な弧を右半分だけに描く唇が開かれた。左半分が上手く動いていない。


「煮込み挟み三個、頼むよ、テーラ」


「……うん、それはいいけれど、ちょっと訊きたいことがあるのよね、サフィルス」


 開店と同時にやってきた幼馴染――その名が示す通り蒼い宝玉のような美しい右目を少し細めて私を見るサフィルスに向かって、私は言った。


「もしかして左目のこと? それとも私服なのにこんな時間からここに来ていること? 煮込み挟みを寄越してくれたら言うよ。昨日並んで買えなかったから今日どうしても食べたい」


 開店したてのパン屋「彩浪亭」の椅子に腰掛け、長い足を組んだその上に頬杖をついている彼はもう一度右目を細めながらにやっと笑って催促してきた。


「……わかった、ちょっと待っていて頂戴」


 目を細める癖なんてなかったのに。


 両親はサフィルスが来た時点で、私に神妙な表情を向けて頷き――若い者だけでゆっくり宜しく頼むという合図だ、ついでに何かを感じ取ったのだろう――今は厨房の奥にある部屋で休憩という名の朝食を取っている。店番は私しかいない。


 日の出から大体二刻後――昼の二刻という時間に開店する中央行政区の飲食店達だが、朝一番は殆ど客が来ないから大丈夫だ。持ち帰りの食事店や私達のようなパン屋が賑わい始めるのはもう一刻程後、昼の三刻になる。それから半刻程で、全ての仕事が始まるようになっている。だから、彼の来店は極めて……何というかその、非常に珍しいものだった。


「ねえ、お腹空いた」


「わかったから」


 私は昨日来たという彼に会っていない。何故なら、シルディアナ中央行政区の商店再登録の為、両親の代理で宮殿まで足を運んでいたからだ。仕方がない、帝国だったものが群主性共和国とかいう民衆主体の国になるというのだから、土地や店に関する登録や管理は今まで以上に気を付けないといけない、次世代である私が。


 まあいい。ここから行使するのは幼馴染用の特権だ。今日のおすすめの一角に並べられた冷めかけのものではなく、私は厨房で焼きたて熱々のパンを三切れ取って指の間に折り曲げながら挟み込み、熱々の牛肉のワイン煮込みがたっぷり入った鍋から赤身と脂肪が程よく斑になった部分の肉を三切れ掬い上げた。それをパンの間に手早く挟んで、緑の美しい葉野菜チシャをその両隣に詰め込み、薄くて油を通さない植物紙に包み込んで完成だ。


「サフィルス」


 名を呼んで差し出すだけで、何時の間にか厨房まで近付いてきていた彼のがっしりと鍛えられた太い腕が三つの包みを優しく掻っ攫っていった。少し遅れて手の中にちゃりんと小銭の音、これくらいは想定内だ。


「ありがとう!」


 言うが早いか、サフィルスは手近な椅子にさっと腰掛けて、一つ目の包みを早速開封して食べ始めた。普段の彼は「彩浪亭」で買っていったパンを仕事場――シルディアナ宮殿で食べていたのだが、今日は違った。


「……ここで食べちゃうのね?」


「うん、もう行く必要ないから、それに私は今私服だし」


 お行儀良くも口の中のものをごくりと飲み下してから、彼は私の方を向いて頷いた。


「……どういうこと?」


「ちょっと待って、まず一つ食べ終わる」


 何かとんでもないことを聞いたような気がする。私は思わずその横顔を見つめたが、そんなことに一切気付かない彼は綺麗な顔に似合わない大口を開けて、煮込み挟みパンに噛り付いた。


 緩んだ眉間と細められた目、口角が幸せそうにふにゃりと上がって、身体は前後に揺らされた。額の真ん中で分けて肩口で切り揃えられた真っ直ぐな淡色の髪も、透明なグランス鋼の窓から差し込んでくる朝の光にきらきらと揺れた。じっくり時間を掛けてもぐもぐと咀嚼してから、ごくりという音とともに喉の角が上下する。そして、また大きく口を開けて、もう一口。ワイン煮込みの香りを逃がすものかと言わんばかりに、鼻の穴が膨らんで一杯空気を吸い込む。噛り付いた瞬間、白くて綺麗な歯並びが見えた。高い鼻梁から抜ける満足そうな言葉無き声がそっと床に落ちて、私の立っている場所まで転がってきた。


 今日のおすすめである白パンの下拵えとワイン煮込みを担当したのは、他でもないこの私だ。昨晩の努力に対する報いはサフィルスの食事風景で十分だった。しかし、誇らしい気持ちはあれども。


「美味しそうに食べるねえ」


「だって美味しいもん」


 たったひとつの右目がじっとこちらを見つめてきた。もう双眸とは言えないのが惜しいほど綺麗な色なのに。


「両親に連れられてここに初めて来た小さい頃からずっと通っているけど、味も変わらないし」


「あんたが今食べているそれ、私の仕込み」


「あ、本当に?」


 眼帯に覆われた顔の左半分に引き攣れたような皺が寄った。よく見ると、その頬には酷い火傷の痕が残酷な赤みを残している。右半分は綺麗な笑顔なのに。


「いやあ、食べるだけで幸せになれるって、実に大事だねえ」


 煮込み挟みパンをあっという間にぺろりと平らげて、幸せそうな溜め息とともにしみじみとそう零す、その声音には言葉以上の何かが詰まっているように思えた。


 サフィルスは昨日来たと言うが、私の方は、シルディアナ帝国が群主性共和国に変わった革命以来三カ月ほど、彼と会うどころかその姿さえ見ていなかった。婚約者との結婚支度がいよいよ佳境に差し掛かったのだと思っていたのだが、私に会いに来てよかったのだろうか。


「で、この顔とシルダ家近衛兵のことだっけ」


 忘れていなかったらしい。下等、中等、高等と学舎に通っていた時も、仕事においても、遅刻や欠勤が一切ないぐらいにきっちりしている彼だが、自身の私生活になると色々と抜けがある男だ。小さい頃から付き合いのある私は、彼が事ある毎に何を言おうとしていたか、どんな行動をしようとしていたかを忘れて誰かから突っ込まれる姿を、よく知っている。珍しく今回は忘れていなかったらしい。大事なことだ。


「そう」


「革命、あったよね」


「宮殿にアルジョスタが雪崩れ込んできて玉座を破壊したあれね。そこで怪我したの?」


「そう、近衛十人でかかったのに、侵入者の女の子一人に負けた」


 訂正しよう、彼に取って忘れられるわけがない体験だったに違いない。


「それで、倒れた後に陛下を追って、火魔石爆弾の爆発に巻き込まれて、溶けたフェークライト鋼が左目に直撃した」


「……よく生きていたね」


「でも、お守り出来なかった陛下は……今、行方不明だ、生きているかどうかもわからない」


 話せば話すほど、サフィルスの視線は私の顔から胸、腹、脚の方へと下がっていった。同じように声も小さくなった。


「皇帝陛下の顔を知っていたの?」


「大層美しい人だったよ。噂では病弱だとか虚弱だとか言うけど、そんなことは一切ない」


「健やかであらせられたのね」


「実は、私と一緒に何度も市街地へ足をお運びになったりもした」


「……もしかして、前連れてきたあの綺麗な人、陛下だったの?」


「そう、ここのパンは美味しかったって仰っていたよ」


 彼の手が腿の上で組まれ、指の肉が白くなるほど握られたのが見えた。私も手近な椅子を引いて、丸まった身体の隣に腰掛ける。木と石を擦り合わせる低い音が床の下へと沈んでいった。


「……それは、また」


「陛下は私の少ない小遣いで様々なものを買い食いなさった。グラン・フィークスを大層お気に召されてね、私の財布が苦しかったよ」


「近衛兵って薄給じゃないでしょう」


「私の場合は婚約支度があったからね」


「お金、溜めていたのね」


「まあ、もうそんなに溜め込む必要もないけれどね。婚約破棄したから」


 彼の名はサフィルス・ランケイア、シルディアナ貴族だ……だった、の方が正しい。平民や貴族という枠組みは革命の際に消え失せた。貴族といっても首都周辺地域に所有地を持たず術士の使う杖のみを授与された“杖貴族”という立場ではあるが、ランケイア氏族は王国時代から数百年の歴史を持つ水使いの系譜。当代の三人目のせがれである彼には当然婚約者がいる。一人目となる娘は反乱軍アルジョスタに所属してお尋ね者になっていたけれど、サフィルスとその兄が皇帝側につき、姉を捕縛すべく捜索している。


 いや、今の彼の話を加味するに、全ては、いた、か。


「三カ月ぐらいここに来られなかったのは単純に怪我の治療が遅れたからだよ」


「光精霊殿には行ったの?」


「入り浸りで治療を受けてこれだよ」


「……」


「もっともっと酷かった、光精霊殿にいた治療担当の光使いには苦労させてしまったなあ」


 サフィルスの今日の話は全てが過去形だ。


「急遽呼び寄せた兄上でも駄目で……そりゃあ、光使いよりも治癒の腕に劣る水使いだからね、でも、結局エレミア姉上にここまで治して貰った」


「ああ、お帰りになられたのね」


「現政府の貢献者としてね……ランケイア氏族一の水使いと名高い姉上だからこそかな、そこらの光使いよりも強くて、あっという間に痛みが消えた、エレミア姉上は素晴らしいよ」


「尊敬しているのね」


「……私は、誰かが間違っていると思わないことにした」


 シルディアナに反旗を翻した姉が間違っている筈だった、だがしかし今は自身が間違っていたのではないか、という疑念が彼の言葉の裏に隠れているのではないかと、私は気付いた。


「姉上には婚約者がいるそうだ」


「それってシルディアナ貴族なの?」


「いいや、宰相キウィリウスの親戚だそうだよ、血は繋がっていないらしいけれど」


「厳密にはシルディアナ貴族だったとは言えないのね」


「革命の時にちょっと治らない傷を抱えたそうだけれど、エレミア姉上は一生傍にいたいって」


「火のように情熱的な方なのね」


「同じように、私もずうっと傍にいたいと思っていたけれどね、破棄したものはしょうがない」


 物憂げに伏せられたその瞳を美しいと思ってしまった私は悪くないと信じたい。ただ、その感想は心の内に留めておいて、違うことを口に出した。


「そのご家族であらせられる宰相様とは会ったの?」


「いいや、彼も行方不明らしい」


「……そう」


「私は噂ぐらいしか聞けない立場になってしまったし」


「……どういうこと?」


「近衛軍団はつい先日解散した、三日前の朝のシルディアナ放送で流れていなかったかな?」


 その放送は見そびれたかもしれない。シルディアナ放送の時間帯は朝の仕込みで忙しいのだ、故に我が家という名の店舗には、値段も契約料も高い平面映像の黒い機械板は存在しない。凛鳴放送も、店の正面にでんと居座る竜の彫像の口から大音量で流れてくるので、受信などしていない。父が平面映像機を欲しいなあと零して母がそんな余裕も見る時間もないでしょと打ち切ったことは、一度だけあった。ついでに、そのうち竜の彫刻が平面映像機をぶっとい両腕に抱えるだろうからうちに平面映像機はいらないなあ、と私は思っている。想像すると滑稽だけれど。


 サフィルスが顔を上げた。自嘲の笑みが、治った筈の火傷の如く、顔の右半分に張り付いている。


「陛下も宰相様も行方がわからない、私は何もかも失ってしまった」


「……」


「革命のせいで」


「……サフィ」


「この顔じゃ夫には相応しくない、って旦那様に言われたし」


「それと努めとは関係ないじゃない」


「君に未来があるのか、なんてことも言われたし」


「お金は残っているのでしょう?」


「支度金は全部向こうへの贈り物の購入資金に消えたさ、そしてもう送った」


「お嬢様もあんたを好いておられたのではないの?」


「怖い、って言われて、それっきり目も合わせてくれなかったよ」


「……」


「……貴族なんてもの、もうなくなって、向こうだって平民の癖に」


 いつの間にかやや幼い口調へと変わったその声は震えている。握り込んだ両手も震えている。脇の机に置かれた煮込み挟みパンは湯気を出さないくらいに冷めてきていた。彼の顔の右側、すべらかな頬を、一筋の涙の雫が伝って落ちる。


「ちょっと顔を見せないと思ったらどこもかしこも怪我してきちゃって」


「本当だよ……うん、痛い」


 項垂れた朝日色の頭をぽんぽんと撫でながらそう言えば、御しきれなかった嗚咽がサフィルスの歪んだ口元から漏れた。


 昨日から誰かに聞いて欲しくて仕方なかったのだろう。彼にだって親しい友人の一人二人ぐらい仕事場にいた筈なのだけれど、近衛軍団が解散した今、顔も合わせづらく、疎遠になってしまっているのだろうか。


「僕だって、治らない、傷を、負ったのに」


「……あんたの姉上とあんたの婚約者は別の人でしょう」


「わかっている、そんなこと」


「わかってないくせに」


 反射的に言ってしまってからしまったと思ったけれど、予想に反して彼の腕が私の胴に回ってきて、胸に顔を埋められた。話に聞く彼の姉上よりも私の方が姉みたいだ、と思った、姉貴分という立場で間違いはなさそうだけれど。


「今、わかったの、だから、辛い、辛いよ、テーラ」


「そういう時は呑みに誘いなさいよ」


「君だって、年頃の、女の子、でしょう」


「その年頃の女の子の胸にしがみついているあんたは何なのさ」


 髪を梳くように撫でたら嗚咽が激しくなった。


「ごめん、ごめんね」


「もう、かまやしないわよ、サフィ、別にこんな時ぐらいみっともなくたって」


「ちょっと、色々、はっきり、言い過ぎ、だけど」


「あんた本当に慰めて欲しいの?」


 サフィルスは嗚咽混じりに泣きながら笑った。器用にパンを作って器用に対応をするねと褒められてきた私の弟分にしては不器用な奴だ、丁寧な語調も崩れて、剣を刷くこともなく、無防備な姿を晒している。


「うん、呑みに行こう、サフィ」


「お金、ないよ」


「私が出してあげようじゃないか、南街区に良い店を知っているから」


「……いいの?」


「いいよ」


 こんなもんじゃ足りないだろう。何処かで全部吐き出して貰って、それからたんまり私のパンを食べさせたいなあ、と思った。煮込み挟みじゃなくても、揚げパンでも米パンでも砂糖のパンでも、両親仕込みの私の腕があれば、きっとまた笑顔が見られるのではないか。


 ……幼馴染としての独占欲だろうなあこれ、ということは、ちゃんと自覚している。なので、おっぱい、という呟きが溜め息とともに胸元から聞こえてきたことには言及しないでおいてやろう。


 それから私は、サフィルスが残りの煮込み挟みパンを美味しそうに全部平らげるのを最後まで眺めてから、本格的な仕事に入った。



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