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「わたくし、シルワと申します、あの、貴方とお話ししてみたいと思いました」
という一生懸命な言葉を受け取ったものだからたまらない。しかも、心当たりがあるどころか、十日前の夜に幼馴染の口から飛び出した名前だ。二つのおやつパンをお買い上げ戴いた少女には、目立たない、且つ勘定台から最も遠い一角に置かれた食事用の机と椅子について待って貰うことにした。話をしたいと言われたのは昼の九刻。そこから二刻後、日が傾き始める夜の一刻に「彩浪亭」の営業は終了する。それでも構わないかと訊けば、まるでロウゼルの蕾が綻ぶような美しい微笑みを披露し。
「折角ですもの、美味しいパンを戴きながら素敵なお店を眺めることにいたしますわ」
とのことで、待って貰うお礼にシルワに相応しくロウゼルのお茶を、優雅な日没前を演出するケールン製のカップとポットで、皿におやつパン、という大所帯編成で出した。
あんなに美しい少女に見られていると思うと非常に落ち着かない二刻だった。
途中で一度厨房から出てきた父から、サフィルスが生地捏ねという大胆かつ繊細な力仕事において非常に使えるという詳細な報告を頂戴した後は、厨房要員である彼をもう客ではないのだから裏口から返した方がいいのではないかと提案し、明日の昼の四刻で私自身が彼の雇用許諾書を宮殿に投げに行く旨を伝えた。すると、父は新作のパンが美味しく焼けた時ぐらい嬉しそうな顔をして、平面映像機は雨季までに欲しいと宣った。出来そうだけれどそうじゃない。
兎に角、私は予定通り夜の一刻に「彩浪亭」の「営業中」看板を裏返して「準備中」に設定することが出来た。夜が始まると、シルディアナ市民は酒場に流れるきらいがある。それが救いだった。
「お待たせしました」
「いいえ、とても優雅で素敵な一時でしたわ、わたくし、あの林檎のパイがとても気に入りました……あの酸味と甘み、香辛料の癖が見事に調和した一品! たまりませんでしたわ」
花咲く笑顔で夢見がちに語られて、さあ、誰が堕ちずにおられるか。サフィルスじゃなくて私が婿に行きたい、女だけど。寧ろ彼にやるには惜しいぐらいの逸材である。美姫とも名高かったエーランザ・シルダの再来かと思う程に。
「それは光栄です、甘いものを作ることに関しては天才の父にお伝えしておきましょう」
「まあ、ご主人様の……素晴らしいですわ、お名前をお伺いしたいと存じます」
「父ですか、名はイーグニス・サルヴァティオ、因みに私はテーラと申します」
「イーグニス様は火の名前を持つ方なのですね、パン職人の方にぴったりです」
うっとりした笑顔で父の名を口にする少女。ああ、これは父に会わせたら最後、生涯おやつパンを作ってお仕えするのではないか、とすら思える。このままだといつまでも目の前の美姫を拝み倒し引き留めて迷惑を掛けそうだったので、私は本題に入ってしまうことにした。
「ところで、シルワ様は私と何の話をなさりたいと?」
「そうですわ、それです、テーラ様……」
途端にシルワの表情が翳りを見せた。夕日の残り香が窓から零れ落ちる中にそれも美しい、じゃなくて。
暫く俯いて言葉を探すように宙へ何度も口付けた後、彼女は意を決したように顔を上げた。
「サフィルス様のことです」
「……失礼ながら、一つお伺いしても宜しいでしょうか、シルワ様?」
「ええ、もう、わたくし、あなたとサフィルス様が恋仲でも驚きません」
訊こうとしたら先手を取られた。待て、何だ、それは。
「……おやめください、違います」
「……あら、あのように親しげなやり取りをなさっていたのに、違うのですか」
だからどうしてそうなる。彼女は気の抜けたような表情で数回瞬きし、右手をそっと口に添えた。
「わたくしの思い違いだったのかしら……」
「……ということは、彼と婚約していたのはシルワ様でお間違いない?」
「ええ、その通りですわ」
すかさず訊けば肯定の返事。
「彼は、シルワ様の前ではどんな男だったのです?」
「殿方としてのサフィルス様ですか、ええと――」
私との関係にまつわる話から逸らすべく更に畳みかければ、シルワの頬はみるみるうちに薔薇色に染まり、夕日の名残を受けて火が宿ったように見える青灰色の視線が伏せられた。
「とても親切にして戴いて、お優しくて……笑顔の素敵な方だと、今日ここでテーラ様とお話しされていた時のお顔も、わたくしはとても好ましいと思いました、だって」
火精霊が宿ったように見える彼女の目が、また私を振り仰いだ。その華奢な体は前傾姿勢になり、細くて滑らかな手が机の上で組まれる。
「とても……本当に楽しそうなお顔でしたから、サフィルス様にあのようなお顔をさせられるテーラ様も、素敵な方なのだろうなと考えたのです、だから、お話ししてみたいと思ったのです」
「シルワ様――」
「先日サフィルス様がいらっしゃった折に、お父様と一緒にお会いしたのですが、わたくしはお顔を拝見した瞬間に怖いと思ってしまって、考えなしに口走ってしまったのです……そうしたら、とても悲しそうな目をされていて、ああ、わたくし、サフィルス様を傷付けてしまった、それに、お父様に婚約破棄のことまで処理させてしまって、取り返しのつかないことをしてしまったと思って、お父様は過保護で、でも、あのような笑顔を拝見すると、わたくしも、わたくしにだって」
「シルワ様」
私は思わず、机の上で固く組まれた彼女の手に自分の手を重ねた。一刻も早くこの健気で可憐な少女――否、花咲ける乙女を安心させたいという想いで一杯だった。取り敢えず落ち着け。
「ロウゼルのお茶を一杯、飲みませんか」
「……戴いても?」
「ええ、お入れしますから」
お待ちくださいね、と微笑んで席を立つ。すぐそこにあったケールン製のポットを手に取り、私はお湯を調達すべく厨房へと向かった。閉店後暫くは父も母も一息をつきたくて、大量のお湯を沸かし、裏口に自作した休憩場所へお茶を飲みに出ている。流石にサフィルスは帰ったのだろう、扉の向こう、厨房の中には誰もいなかった。思った通り大鍋の中にお湯が大量に湧いていたので、有り難くポットの中に頂戴する。
ついでに自分も飲みたくなってきたので、ロウゼルの茶葉の袋を引っ掴み、私は再びイオクス材の扉を開けて店内に戻った。
「ロウゼルは、その香りだけで心を落ち着かせてくれます」
私がシヴォライト鋼の茶漉しでロウゼルの葉をお湯に浸けながら抽出していると、シルワは少し取り乱した自身を恥じるかのようにそう囁いた。
「飲めば安心致しますよ、私の両親は、閉店後の今の時間に揃ってお茶を飲むのを好んでいます、裏口に休憩出来る空間を自作してしまうくらいには」
「まあ、素敵、休憩出来る場所もお造りになられるなんて」
彼女の目がきらきらと輝き、その小さな手が胸の前でぎゅっと組まれた。駄目だ、こういう反応をされると、店頭に出そうかどうか機会を見計らっている私考案の試作最終段階のパンを全部出してしまいたくなる。
「……そうですね、シルワ様にもう少し、お出し致しましょうか」
「あら、何ですの?」
「まだ店頭に出していないパンが御座います、ご自宅での食事が入らなくなると仰せでしたら、謹んで遠慮致しますが……」
顔を少し俯かせて上目遣いで問いかければ、シルワはくりっとした大きな目を丸くして、ころころと楽しそうに笑った。
「あら、侮らないで戴きたいですわ、わたくしは一日三回、毎回の食事において、シルディアナ東湿原産の米を三皿ずつ戴きますの、はしたないと窘められるのですけれど」
「おや、それならば是非とも「彩浪亭」の秘蔵をお召し上がりになって戴きたいものです、可能であればご意見を頂戴したく」
「はい、是非、是非!」
「では、暫くお待ちください」
私は再び立ち上がって、厨房へと滑り込んだ。
今夜の仕込みの際にもう一度作って両親に品定めして貰おうと考え、昨晩のうちに取り分けておいた生地と材料を大型の魔石冷蔵保管箱から引っ張り出す。オレイア樹の実から採れた油を塗った紙の上に、弾力のある白い生地を適量引きちぎり、叩いて円形に伸ばし、竜角羊と草食竜の粗挽き肉に塩や粗挽き胡椒を加えた腸詰を生地の端に巻いた。中央の何もない広場には、酸味と甘みたっぷりに熟した珊瑚樹の赤い木の実を潰してワインと一緒に煮込んだソースをたっぷり塗り、小さな珊瑚樹の実も輪切りにして散らした。
だんだん楽しくなってきて、私は竈焼きの歌を口ずさむ。ひとつ焼くは屋根、二つ焼くは壁、三つ焼くは器、四つ焼くは糧。ラ=レファンス魔法研究所産の緑色が鮮やかな鐘胡椒の実は、種を取り除いて分厚い皮のような果実を輪切りにし、円になるよう均等に置いた。五つ焼くは敵、六つ焼くは骸、七つ焼くは魂、八つ焼くは大精霊の思し召し。高原牛の肉を成形した円筒形の棒を薄く切り、これもまた均等に散らしていく。アスヴォン高原で育てられている牛の乳を使った熟成チーズを小指ぐらいの大きさに切って、最後に全体へ振り撒く――視線を感じて振り返ると、扉が薄く開いていて、そこから覗くのはくりっとした大きな目。
「あっ」
明るい調の割にえげつない歌詞を聴かれたか。かなり有名な料理人達の歌なのだが、中等学舎では最も不人気である民俗文化研究課程の者ぐらいしか知らない。つまるところ私だ。
「ああっ、お続けになって、テーラ様」
シルワは慌てたように言ったが、そこから退くつもりはないらしい。その小動物のような仕草に思わず声を出して笑ってしまった。
「シルワ様、堂々とこちらにいらっしゃって御覧になればよろしいではないですか」
「……構わないのですか?」
「ええ、勿論、ただ、粉が舞い上がってしまいますので、扉はそうっと閉めて下さいね」
彼女は私が言った通りにそうっと扉を開けて中に滑り込み、そうっと扉を閉めた。すぐ隣にそっと立ち、こちらを見上げて囁く。
「……あの、先程の歌はそこで終わりなのですか? わたくし、初めて聴きました」
「まだ続きがございますよ」
私は微笑みながら、火魔石の竈の蓋を開けた。君と共に歩む道、君を守り歩む道、君を喪い歩む道、また先で出会う道。歌いながら具を乗せた生地の下に敷かれている紙の部分を掲げ持ち、火魔石の熱で燃えないぐらいの位置までぐいっと押し込む。共に焼くは命、友を焼くは命、糧を焼くは命、竈焼くは我が道。厨房の壁に掛かっている時刻板を見れば、夜の二の刻すぎを指している。後は四半刻ほど待つだけだ。
食事とは当に生命活動である。また、共にする者がいるからこそ私達人なるものの生は成り立つ。
「テーラ様のお声で最後まで聴いたからこそ、良き歌だとわかりましたわ」
「勿体ないお言葉でございます……そう言えば、何百年か昔の英雄の言葉に、食べて笑って寝ろ、というものが存在しておりますよ」
「通じるものがございますわね」
鈴が鳴るようなその美しい声で歌って貰いたいものだと思いながら、柔く頷いた彼女に微笑み返し、私は再び冷蔵保管箱を開けた。まだ生地が余っている、もう一つ作ろう。
「先程竈の火にかけたのは塩気のあるものなので、今度は甘いものを御覧に入れましょう」
今度は、ロウゼルの花から抽出した香料、赤い色はアスヴォン高原産の薫り高く甘酸っぱいフラガリア、サントレキア大陸産の楓蜜を使う。壁に掛けている小さい鍋を掴み、その中にフラガリアを少し入れ、木の棒で潰す。粗方潰れたらまたフラガリアを少し入れて、潰す。少し入れて、潰す。鍋の三分の二が埋まるまでひたすら粗めに潰す。潰し終わったら手を洗う。それから楓蜜を片手に注いで、溢れそうになったら止めて、フラガリアの鍋に注ぎ入れる。手に付いた分は行儀が悪いけれどぺろりと舐めて、幸せだ。
「テーラ様はもしや、フラガリアの甘露煮をお作りになるつもりでいらっしゃる?」
「ええ、その通りでございます」
「それをパンに練り込むのですか?」
「いいえ、少し固めに仕上げて、生地の中へ流し込むのですよ」
楓蜜をしっかりフラガリアに馴染ませた後は、ロウゼルの香料を数滴振る。ロウゼルは雨季に咲く花、その時期に花弁や花の根元を摘み取り、限界まで搾り取るという製法だ。当然茶葉よりも香りが強く、数滴だけ入れればフラガリアや楓蜜とよく調和する。たった数往復の私の腕の動きで一気に厨房の隅々まで拡がったロウゼルの香りを、シルワが恍惚とした表情で胸いっぱいに吸い込んだ。
「ああ、幸せです、幸せです」
「まだ早いですよ、シルワ様」
「甘露煮どころかロウゼルの香りだけでこんなことになってしまうなんて、わたくし、どうなってしまうのでしょう……ああ、テーラ様、そうだわ」
「何かご提案が?」
「ええ、提案致しますわ、少々お待ちくださいませね?」
彼女はとびっきりの笑顔で、突然両腕に嵌めている高級そうな腕輪をパチンパチンと外し、そうっと扉を開けて出ていって、すぐにそうっと戻ってきた。髪が後頭部でさらりと纏められている。
「わたくしにもパンを作らせてくださいまし!」
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