外伝3. 相変わらずの日常
「どうしたんですか? 兄上、血相を変えて」
マーゴが困ったように眉尻を下げ、のんびりとした声色で敬愛する兄トールへ言葉を向ける。
対するトールは大仰な仕草で頭に手をやり、鮮やかな赤色の髪をぐしゃりとかきむしった。
「まただ。また報告が入ったのだ」
兄の言葉にマーゴが首を捻る。
彼は兄が政務に励んでいることを重々承知していた。時にはガビアにまで指示を仰いでいるのだという。
トール兄様は熱くなるところはあるけど、叔父上に似て真面目で何事も真剣に取り組むところがあるんだ。
たぶん、ガビアさんとは相性がよくない。
それでも、兄様は自分が考えるよりガビアさんの方が優れていると分かっている。だから、相性が合わずとも彼の元へ足しげく通っているんだ。
そんな兄様がここまで血相を変えるなんて何事なんだろう?
マーゴは心の中でそのようなことを思いつつ、飛び出して行った兄を追いかける。
屋敷を出たところで、三十代半ばほどの黒髪の兵士がトールへ敬礼を行う。
渋面を浮かべる彼の額と口元には深い皺が刻まれていた。
「ペリュトス。場所はどこだ?」
「中央大通りです!」
「よりによって、本当にあの御仁は」
トールと兵士のやり取りを聞いたマーゴは、これはただ事じゃないぞとゴクリと喉を鳴らす。
これは、兜の緒を締めていかないと。ただ事じゃあないぞ。
兵士に続き再び走り出した兄の後ろを追うマーゴであった。
◇◇◇
着いた先は兵の言う通り中央大通りで、群衆が集まり何やら騒ぎになっている。
トールと兵を見た群衆は真っ二つに割れ、二人を中に通す。
群衆に囲まれていたのは、伏せた状態で倒れ込む長いローブを着た男だった。
彼はピクリとも動かず、生きているのか死んでいるのか分からない。
「兄上、この方はひょっとして……」
地面に顔を伏しているため、マーゴには彼の顔が確認できないでいる。
しかし、この背格好は彼の記憶する人物に近い者がいた。
「クテシビオス殿だ」
「兄上、こうしてはおられません」
「いや、いいんだ。そのうち、ヘロンが来てくれるはずだ」
はあと大きなため息をついたトールは傍らの兵へ目配せを行う。
すると、兵は察したように「滞りなく」と手のひらに拳を打ち付ける。
さて、トールと兵のやり取りの通りなのか群衆がざわつきはじめた。
ヘロン少年が来たにしては、えらく群衆が騒いでいるなあ。
マーゴの想いを証明するかのように、姿を現したのは壮年の男だった。
男は何も身に着けておらず、嫌そうな顔をした若い女性の目など気にした様子もない。
「アルキメデス殿?」
「何故、アルキメデス殿なのだ! 事態が悪化するだけではないか!」
ほんわか呟いたマーゴに対し、トールは髪を逆立てんばかりに絶叫する。
全裸の男はアルキメデスだった。
彼はトール達には目もくれず、真っ直ぐにクテシビオスへ駆け寄る。
「クテシビオス殿! 大事ないかあああ」
「……み、水……」
クテシビオスが地の這うような声で息絶え絶えに呟くと、アルキメデスは「ふうむ」と顎に手を当てた。
「水か。ほうほう。水と言えばそうだ。コップに水を入れる。次に石を入れると水が溢れるだろう」
「……み……」
「そうだ。溢れるのだ。石の大きさだけ水が溢れる。石と水では重さが異なるのだ。そうなるとだな、クテシビオス殿――」
アルキメデスが熱く語る。
既に彼の頭には当初の「大事ないか」というクテシビオスを案じた思いなど吹き飛んでいた。
彼はただただ水と石の関係に注力している。
トールは「もはやこれまで」と額に手をやり、傍らにいた兵も唖然と状況を見守るばかり。
「兄上?」
水をクテシビオスさんに飲ませればいいんだよね?
マーゴは至極当然のことを考え、頭を抱えるトールと兵をよそに一人動き出す。
ところが、一歩動いたところでバシャーと水が流れる音が彼に耳に届いた。
「全く……何、遊んでんだこんなところで」
大きな桶を抱えたガビアが顎をあげ、倒れ伏すクテシビオスに対し鼻を鳴らす。
彼は桶を放り投げ、地面を引きずってきた貝紫で鮮やかに染めた帯を掴み上げる。
パンパンと帯をはたきながら、彼はトールへ目を向けた。
「水をぶっかけりゃあ正気に戻るんだろ。すぐに水をぶっかけることができるように準備してたらいいだけの話だ」
「かたじけない。ガビア殿……」
トールが素直に頭を下げ、ガビアに感謝の意を述べる。
クルクルと帯を回転させたガビアは、もう一方の手でトールの肩をポンと叩く。
「お前さん、それなりに文官としての才能はあると思うぜ」
ガビアから思ってもみなかったことを言われたトールは目を見開き、硬直してしまう。
「決めたことは全てこなす。やることも膨大だ。だが、こなす。コツコツと全てな。なかなかできるもんじゃあない」
「ガビア殿……」
「だけどな。クソ真面目すぎんだよ。お前さんの頭は固い。クソ真面目だ。じゃあ、クソ真面目に全部用意すりゃいいだろ」
「それはどういった」
「いいか。トール。お前さんの苦手とするのは『例外』だ。なら、例外を無くせばいいだけの話ってこった。お前さんは準備をすることを厭わない。苦にも思わない。そいつがお前さんの美徳であり、他の者にはできねえことだろ?」
ニヤアっと口角をあげたガビアは踵を返し、ヒラヒラと手を振る。
「ガビア殿、どうして突然このような助言を」
トールの呼びかけにガビアは振り向くことなく、軽い調子で言葉を返す。
「ちょいと休暇をもらってきたんでな。船旅でもしようかってね」
ガビアは鼻歌交じりに元来た道を歩いて行く。
「ガビア殿が不在だと……」
「まあまあ、兄上。ガビアさんの事ですから、全ての準備を整えていますよ。あの人は抜け目がないですから」
「そ、そうだな。私は私でガビア殿の助言を活かし、頑張るとするか」
「はい。兄上」
兄弟は頷き合い、くしゃみをするアルキメデスを見下ろすのだった。
※お久しぶりです。いよいよ書籍版「打倒ローマのやり直し」が2月15日に発売されます。発売を記念し、外伝を三話アップする予定です。よろしくお願いします。
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