外伝 ムセイオン学長の選出

 トールは困惑していた。

 彼は若くして重職を任される身になっており、尊敬する兄や叔父に一定の評価を得ていた。

 彼自身、そうなれるよう努力をしてきたつもりでこれまで重責であろうとむしろ喜んで受領し、こなしてきている。

 だが、此度の命に対してはさすがの彼をもってしても様相が異なっていた。その命とは……

 

――ムセイオンの学長の選出である。


 カルタゴノヴァではアレクサンドリアのムセイオン知の結集を参考に、同様の施設を建築し人材を集めている。

 ハンニバルは元祖たるアレクサンドリアのムセイオンに敬意を払う形で、名称も同じにした。

 そして、カルタゴノヴァにムセイオンができてから数年がたたぬうちに、東のアレクサンドリア、西のカルタゴノヴァと言われるほどの知名度を得つつある。

 

 トールはムセイオンの設立当初から関わっており、まず何をすべきかと悩み自身の思いつきだけではうまくいかなかった。

 そこで、「困った時にはガビアを頼れ」とイベリアの文官の間での格言に従い、彼に相談を持ち掛ける。

 

 トールはこれまでガビアと二者で話をしたことが無かったが、彼の切れすぎる智謀を目の当たりにし、彼こそが真の天才だと確信した。

 ガビアの方針に従い、トールがやったことは多岐に渡る。

 代表的なことを示すと……本家アレクサンドリアのムセイオンにある書物を粘土板、パピルスへ模写する。これはまだこの先数年かかる見込みだが、どちらか一方の書物が失われても再生可能にすることと、カルタゴノヴァにあるムセイオンの書物の充実の二つが達成できる。

 模写については、アレクサンドリアのムセイオンも歓迎する意向を見せ、日夜カルタゴノヴァの学徒によって模写が行われている。

 もう一つは模写に関わることだが、ムセイオンへ学びにくる学徒については学費を無料とした。その代わり模写を行わせる。こうすることで、金銭を持たぬが優秀な人材を拾い上げ、かつ模写も進めることができた。

 もちろん、指定の金額を支払う学徒については、模写は免除する。

 

 そうなのだ。こういった制度的なことであればトールは喜んで引き受けるつもりであった。

 しかしながら、今回与えられた任務は「ムセイオンの学長を選出せよ」ということだった。むろんトールは真っ先にガビアへ相談を持ち掛けた。

 結果は、「誰でもいいだろ」とすげないもので、トールは途方にくれてしまう。

 

 仕方ない、候補の二人に直接尋ねるしかあるまい……トールは心の中でそう呟き二人の学者が住まう邸宅へ向かう。

 

――アルキメデス邸

 ちょうど日が暮れる頃、アルキメデス邸宅へ到着したトールだったが、家主は不在と傍付の者が告げた。

 後日また来ると彼に告げ踵を返した時……

 

 壮年のタテガミのような髪の毛をもった男がこちらへ走って来るではないか。しかし、男は一糸まとわぬ姿で、周囲の者から奇異の目で見られていた。

 その姿を見たトールは、大きなため息をつき「この方へお任せするのは……」と思い直す。

 彼は何も見なかったことにして、次の学者の元へと向かうことにした。

 

――クテシビオス邸

 次にトールが向かったのはクテシビオス邸だった。

 トールはさっそく邸宅の扉を叩くが、反応がない。まさか野盗の類の襲撃にあったかと考えたトールは今一度呼びかけてから、邸宅の中へと入る。

 すると、そこにはテーブルの傍で倒れ伏したクテシビオスその人がいるではないか。

 

「もし、クテシビオス殿、ご無事ですか?」

「う、うう……」

「クテシビオス殿! お気を確かに!」


 倒れ伏すクテシビオスはくぐもった声を出すだけで、相当衰弱しているようにトールには見えた。

 「もしや狼藉者がここに?」とトールは独白し、腰の剣に手を当てながら周囲を警戒する。

 

 その時、ガチャリと扉が開く音が鳴り響き、トールは腰を落とし扉を見据えた。

 

「む、ヘロンか」

「これはこれは、トール様、いかがいたしました?」

「そ、そのだな、クテシビオス殿が」

 

 トールはうずくまるクテシビオスを指し示すと、ヘロンは口元に笑みをたたえ彼にこう返す。

 

「トール様、ご心配には及びません。クテシビオス様はお腹が空いているだけです」

「そ、そうか……そうなのかもしれぬと思ったのだが、ひょっとしたら……と青くなったのだ」

「トール様は心配性ですね」


 ヘロンは苦笑すると、クテシビオスへ水を豪快にかける。すると、クテシビオスの指先がピクピク痙攣しはじめ、何かを求めるように左右へと動く。

 そこへヘロンがパンを差し出すと、彼はそれを手に取りそのまま口へ運ぶ。

 急いで食べるものだから、むせてしまったクテシビオスへ抜群のタイミングでヘロンが水を差し出し、ついでに椅子を準備して彼をそこへ座らせた。

 

 いつもながら素晴らしい手際のよさだ……トールはヘロンの様子を見て感心したように頷く。

 しばらくトールがその場で待っていると、クテシビオスの目に光が戻り、彼は何事もなかったようにコホンと咳を一つついてから、トールへ尋ねる。

 

「トール殿、いかがなされましたかな?」

「クテシビオス殿、このたび、ムセイオンの学長を決めてはどうかと兄上より命を受けております」

「ほう。それでしたら、アルキメデス殿はいかがですかな?」

「アルキメデス殿は……そ、その、裸で走ることがありますので、外国へ出すには少し……」

「ふうむ。では、どなたになされるおつもりで。まさか私ではないでしょうな?」

「アルキメデス殿でなければ、最初期からここを盛り立てていただいているクテシビオス殿をと思ったのですが……お受けできぬ理由がおありで?」

「いや、私を選出するくらいなら、ヘロンでどうですかな? 彼は年少ながら、最も管理能力に優れていると自負しておるのですが」


 た、確かにそうだ。とトールもクテシビオスの意見へ完全に同意する。しかし、これほど年少の者を学長にしていいものか彼は悩む。


「クテシビオス様、トール様が困ってらっしゃいます。ここはクテシビオス様がお受けになってはどうですか?」


 二人の様子を見たヘロンが助け船を出すように、彼らの会話へ割り込んできた。

 

「し、しかしだな、ヘロン」


 抵抗するクテシビオスへヘロンはニコリと微笑み、口を開く。


「ご安心ください。クテシビオス様。外の国へ出る際には私も付き添います。それくらいはトール様も認めてくださるでしょう」


 むしろ、ヘロンに着いて来てもらわねばクテシビオスを外へなぞ出せないとトールは思うが、それを口には出さず二人に言葉を返す。

 

「もちろんです。クテシビオス殿。ヘロンを必ず同行できるようにいたしますので」

「相分かった。それならば、お受けしよう。一つだけ条件があるのだが、聞いてもらえますかな?」


 トールの言葉へクテシビオスは渋々といった様相で頷いた後、彼へ尋ねる。

 

「ええ、何でしょうか?」

「アルキメデス殿へ誰が学長に相応しいか尋ねてもらえますかな? その答えが私の言う通りであればお受けしましょう」

「了解しました」


 トールはカルタゴ式の礼を行い、二人の元を去ると再びアルキメデス邸へ向かう。

 幸いアルキメデスは在宅しており、彼は先ほどクテシビオスから言われたことについて尋ねることにした。

 

「アルキメデス殿、そんなわけで学長を決めることになりました。どなたが相応しいとお考えですか?」

「そうですな。ヘロンはいかがかな?」

「了解いたしました。ご返答ありがとうございます」


 アルキメデスの回答はクテシビオスが望んだ回答と合致していたので、トールはほっと胸を撫でおろす。

 しかし、どこか納得のいかない彼でもあった……

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