第77話 ファビウス邸
――紀元前216年 ローマ ファビウス邸
最善の手はイタリア半島に蔓延るイベリア軍を全て駆逐し、サルディニア島はともかくシチリア島までは取り戻し、彼らと和議を結ぶことだが、奴らの強さが測れない。
奴らが強かろうが弱かろうが問題ない策を講じることが自身の役目だとファビウスは思っているが、制海権とガリア・キサルピナを抑えられている現状……奴らの補給線を断つことは不可能だろう。
逆にローマからイベリアを攻める手段が無くなってしまった。
その結果、ファビウスの最も嫌う戦勝という運に身を任せるしか手段が無くなってしまったのだった。
ファビウスの思いは半ば決まりかけていたが、彼はそれでも自身の考えに納得がいかず、イベリア軍のハンニバルと実際に戦った諸将を自宅に招待していた。
彼が一旦思考を打ち切った時、傍付の者が彼へ来客を告げる。
彼の邸宅にまず訪れたのはプブリウス・スキピオとスキピオ・マイヨルの父子だった。名門スキピオ家とファビウス家は普段それほど親しいわけではないが、ローマの危機とあれば思惑の違いなど些細なことで彼らは協力し合う。
ファビウスはこういった習慣こそローマが精強たる
「ようこそ、おいでくださいました。プブリウス殿、そしてマイヨル殿」
ファビウスは年下の者だろうが、平民貴族だろうが接する全ての者に対して、敬意ある態度を崩さない。普段の彼はローマでも屈指の穏やかな性格を持つ者と認識されているほどだ。
「いえ、ローマの危機とあればスキピオ家も全力でお手伝いさせていただきます」
プブリウス・スキピオはファビウスへローマ式の敬礼を行い、後ろに控えるスキピオ・マイヨルもそれに続く。
「ご丁寧なご挨拶ありがとうございます。単刀直入に聞かせていただきます。ハンニバル殿とイベリア軍を軍事的な見解からどう見ますか?」
ファビウスの問いにプブリウス・スキピオは渋い顔で口元に手を当て、彼の息子スキピオ・マイヨルは机をトントンと指で叩き始めた。
「彼とは二度戦いましたが、イベリア軍は一部の騎兵についてローマ軍より優秀なことは認めます。しかし……軍全体としてはローマ軍の方がより優れているでしょう」
プブリウス・スキピオは智将として名高いが、その名声に違わぬ冷静な分析をファビウスへ告げる。
「なるほど。ローマ軍はそれほどなのですか」
「そうです。しかし……ハンニバル殿……彼の戦術能力は脅威です。一度目はともかく二度目は完全にしてやられました。彼は若いながら、その後の戦いも見ておりますと彼の戦術の深淵はさらに深いものと思わずにはいられません」
「ほう」
ファビウスはプブリウス・スキピオにここまで言わせるハンニバルの戦術的な手腕に舌を巻く。なるほど、イベリア軍そのものではなく、一人の天才による快進撃だというわけか。
彼を暗殺することができれば……いや、英雄の死によりイベリア軍は一時的に実力以上の能力を発揮するだろう。その攻勢にこちらは耐え切れぬ。彼を戦場で抹殺することができるのなら、話は変わるが……
「ファビウス様、あと二度……ハンニバル殿に勝てるまでにはあと二度あればと私は見ています」
ぶしつけにスキピオ・マイヨルが呟くと、プブリウス・スキピオは息子の非礼に思わず彼を制そうとするが、ファビウスは構わないと柔和な笑みを浮かべスキピオ・マイヨルに言葉を促す。
「マイヨル殿、あと二度ハンニバル殿と戦い、三度目ならば勝利できるということでしょうか?」
「はい。彼に届くにはあと二度ほど経験が足りないのではないかと私は見ました」
ファビウスはスキピオ・マイヨルがどれほど優れた将帥なのか知らない。実のところ、ファビウスは「ローマの剣」と言われるマルケルスでさえ、何が優れているのか分からない。
その原因はファビウス自身の戦術能力の無さに起因する問題なのだが……彼はそれで構わないと思っている。彼の信条は、戦場で決着をつけることではなく、戦場に至るまでに勝敗をつけていることなのだから。
「ファビウス殿、我が息子ながら、マイヨルの『学習能力』は比類無きものだと感じております。息子ならば、どれほど優れた将帥相手であろうと『学習』を行えば超えることが可能と思っております」
プブリウス・スキピオはファビウスへそう補足する。
「なるほど、ありがとうございます。ハンニバル殿の優れた手腕を認識することができました。また、彼に勝つにはあと『二度』の犠牲も必要だと」
ファビウスはスキピオ・マイヨルが「三度目ならば勝てる」という言葉に対し、傲慢だと思うことは無く、それは真実に限りなく近いのではないかと感じ取っていた。
彼はスキピオ・マイヨルという人間を短い間だが観察してきた。その結果、彼は冷血動物と言えばいいのか、昆虫的だと言えばいいのか難しいところだが、彼は感情を完全に廃し、パズルを組み立てるような精密さで戦術を組み立てる。
そんな彼が分析し計算した結果ならば、恐らくそうなのだろうとファビウスは考えたというわけだ。
◇◇◇◇◇
次に訪れたのがフラミニウスだった。彼もまたハンニバルの戦術能力を高く評価していたが、誰が糸を引いているのか不明ではあるものの、イベリアのガリア人を取り込んだ政治手腕は脅威だと告げる。
ファビウスもフラミニウスの意見に完全に同意した。支配地を隷属化するのではなく、同じ市民として扱う。他国の脅威にさらされている部族や地域からしたら、従属を選ぶくらいならイベリアへとなるだろう。
ファビウスはかつて書欄をもってカルタゴノヴァへ訪れたことを思い出していた。あの時、相対したハストルバルという男は優れた政治家だと彼は感じていたし、その脇に立つハンニバルからも政治的な才能の片りんを感じさせた。
ファビウスがイベリアに対して感じていた脅威はハンニバルやイベリア軍の連戦連勝する強さではなく、占領統治の抜群の巧さであった。それに加え、カルタゴらしく利益を最大化する手腕も占領統治と同等以上に恐るべきものだと考えている。
ファビウスの思考が終わらぬうちに、今度はマルケルスが彼を訪ねてきた。
「マルケルス殿、ようこそおいでくださいました」
ファビウスは巨漢の偉丈夫マルケルスへ丁寧な挨拶を行うと、彼は武人らしい敬礼で持ってファビウスに応じた。
「戦争ですかな? ファビウス殿? 何処へでも行かせていただきますぞ!」
マルケルスは戦闘狂だと世間で噂されているが、そんな彼らしい言葉を聞いてもなおファビウスは、そうではないと思う。
戦争に赴くことに生きがいを感じていることは確かだろうが、何としてでも戦いを……といった性質とは根本的に異なっていて、彼は「必要」があれば先頭に立ち戦うことをいとわないというだけなのだ。
自分が矢面に立ち、要請があれば渋らず戦場に行く行為から、彼が戦闘狂だと誤解されているだけなのだろう。
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