第76話 打倒ローマとは?

 軍事的にか……ハンニバルはフラミニウス、ルキウス・スキピオ両名の奮戦を「過去」の経験から分析するが、マルケルスとスキピオ・マイヨルの両名に比べれば明らかに劣ると結論を出した。

 フラミニウスは勇将の名に恥じぬ優れた戦術能力を持つ指揮官ではあるが、戦争のみに限って言えばそれほどの脅威ではない。いや、優秀ではあるのだが、マルケルスやマイヨルのように突出した何かを持つわけではないのだ。

 良く戦い、良く守る……まさしく勇将なのだが、所詮勇将に過ぎないというのがハンニバルの見解だ。むしろ、フラミニウスが恐ろしいのは弁舌と人を惹き付けるカリスマにあるだろうと彼は思う。

 

 フラミニウスならば、ガリア・キサルピナがイベリアの手に落ちた情勢下であっても、ガリア人の剣闘士奴隷をも戦力化することが可能かもしれない。

 一方、ルキウス・スキピオはというと、スキピオ・ガウルスに似た武人だとハンニバルは記憶している。ローマの中でも優秀な猛将の一人であるが、あの狂気とまで言える突進を見せるマルケルスに比べれば明らかに落ちる。

 しかし、プブリウス・スキピオとスキピオ・ガウルスがそうであったように、ルキウスとマイヨルが手を組めば脅威となるだろう。

 

 そこまで考えて、ハンニバルはイベリア軍とローマ軍の兵力差を振り返り、マイヨルがルキウスと組んだとしてももはや脅威にはならないと判断を下した。

 何故か? それはガリア・キサルピナから南下の指示を待っているトールらの部隊が十万を超えるからだ。こちらの兵力六万五千、守備隊二万を合わせれば、イベリア軍の総兵力は二十万近くになる。

 対するローマ軍は募兵し、訓練が整うまでに時間もかかり、完了したとしても十五万には届かない。

 

「ん? しかし、どうなんだ? ハンニバルさん」


「イベリア軍の兵力は二十万を超える。もはや、ローマ軍に遅れをとることはあるまい」


「そうか、なるほどな……だからこそのファビウスか……」


 ガビアは何やら一人納得した様子で、クククと低い笑い声をあげる。

 

「ファビウスが選出されたのは、政治的な手腕も含めてだと思うが」


「ハンニバルさん、あんたももう気が付いているだろ? ハンニバルさん、あんたの考える『打倒ローマ』とは何をもって達成したと言える?」


 ガビアの言葉にハンニバルは目を見開き、顎に手をやる。

 そうだ。父と誓いあった「打倒ローマ」の道……

 

――必ずや、滅ぼさん。


 今わの際に父と言葉を重ねて言い放った言葉が、ハンニバルの脳裏に去来する。

 「過去」の経験より、ローマを跡形もなく滅ぼすことは不可能ということが分かった。奴らを追い詰め、滅ぼそうとするならばローマの結束は強固になり絶対の意思を持ってイベリアに噛みついてくるだろう。

 そうなれば、ローマの各都市を落としていく必要が出て来るが、数あるローマの都市を全て占領し、支配下に置くことはローマ人の屈服しないという精神がある限り難しいだろう。

 各都市にそれなりの兵力を置かねば、奴らは反抗しせっかく占領した都市を再占領という泥沼の戦いになってしまう。

 全ての都市にそれなりの兵力を置くことはイベリアの人口から不可能……つまり、ローマを完全に滅ぼすことは不可能なのだ。

 

 ならば、「打倒ローマが成る」とは何を持って達成したと言えるのだ?

 

 ハンニバルは自問する……

 

 考え込むハンニバルへガビアが言葉を続ける。

 

「ハンニバルさん、俺っちはあんたの大きな夢……西地中海を自由に航行し交易を行うって話に惹かれたんだぜ。ローマの目を気にせず、俺っちたちの海を取り戻す。それに乗ったんだ」


 ガビアの言葉を心の中で反芻するハンニバル。

 ガビアは私の言葉に夢を見た。そして、夢を実現すべく進んでいる。なら、私の夢とは何だったのだ?

 父は、叔父は……何を見た? 私は何を思い、打倒ローマを誓ったのだ?

 

 そんな簡単なことさえ忘れていた自分にハンニバルは大きなため息をつく。

 

 父はポエニ戦争に敗れ、復讐心に燃えた。ローマと戦争を行い、今度こそ勝利してみせようと考えた。

 叔父もまた、ポエニ戦争に敗れたことでシチリア島を失ったカルタゴの国力が衰えぬように奮闘した。それがローマに屈服せず抵抗することだと言わんばかりに。

 

 なら私はどうだ? 父の復讐心、叔父の対抗心……これらは確かに私にもある。

 

 しかし、私はただ……

 

――悔しかった。そう、ただ、悔しかったのだ。


 「過去」における戦いでローマに敗れ、勝てぬ勝てぬと嘆き、そしてまた戻ってきた。勝てぬことが悔しかった。

 だから、ローマに今度こそは勝ちたいと願ったのだ。

 

 ローマを滅ぼすことではなく、ローマに勝利すること。悔しさを今度こそ晴らす事。それが私の望み。

 

 ハンニバルは力の籠った目をガビアに向け、拳をギュっと握りしめる。

 

「いい目だ。ハンニバルさん、腹が固まったようだな」


「うむ。ガビア、失ったものを取り戻す。そして、ローマに負けを認めさせ、数十年は反抗しようとする気を起こさぬよう条約を結ぼうではないか」


「それでいいんだな? ハンニバルさん?」


「ああ。それでよい。ファビウスとの駆け引きはお前に任せるが良いか?」


「もちろんだぜ。その言葉を待っていた。俺っちに任せておきな!」


 ガビアは珍しく声を荒げて自身の胸をドンと拳で叩く。

 

「ここから先はローマ市民と我らの心理戦だ。ガビア、お前と意見をすり合わせながら軍を動かす」


「了解だ。ハンニバルさんの軍事的な見解も頼りにしてるぜ」


「うむ。叔父上とも連携をとろう。それぞれ得意な分野で力を振るえばよい」


「ククク、ハンニバルさん、俺っちはあんたのそんな風に割り切ったところが好ましい。じゃあ行ってくるぜ」


 ガビアはよっこらせっと立ち上がると、貝紫で鮮やかに染めた帯を引きずりながら執務室の外へと出て行った。

 

 二人の会話に終始圧倒されっぱなしだったカドモスはガビアが立ち去ったことで、直立不動の姿勢からふうと息を吐き姿勢を正す。

 

「カドモス、すまぬな。お前の役割は先ほどの通りだ。任せたぞ!」


 ハンニバルは放置したままだったカドモスに詫びると、彼の肩をギュっと握りしめた。

 

「いえ、滅相もありません。お二人の深謀遠慮にこのカドモス恐れ入りました!」


 カドモスはカルタゴ式の礼を行うと、踵を返し、執務室を後にした。

 

 「得意な分野で活躍すればよい」……か。ハンニバルは独白し、乾いた笑い声をあげる。思えば「過去」の自身は誰かにここまで頼ることは無かった。

 叔父が暗殺され、頼るべき将もなく、自分一人の力で何とかしようともがいた。トールやマーゴを頼りはしたが、真の意味では自分一人で片をつけようと志向した。

 

 それが失敗原因だろうと今ならわかる。しかし、自分一人で戦いに挑んだことに後悔はない。それが「過去」における自身の限界だったのだから……

 

 そういえば……ハンニバルは「過去」でのガビアとの出会いを思い出す。

 ハンニバルはローマに敗れ、カルタゴ本国を立て直すべく政治に辣腕を振るっていた時だった。とある有力商家のカルタゴ元老院議員がハンニバルへこのような影口を叩いた。

 

「あのお方は、戦争に勝つすべは知っているが、それを活かすすべを知らない」


 その言葉を近くで聞いていたガビアは彼にしては信じられないことだが、その元老院議員の胸倉を掴み激怒したのだ。

 

「何もしねえやつにハンニバルさんの陰口を叩く資格なんてねえんだよ。誰もが彼の夢を本気にしなかった。それがこの結果だ。俺っちを含めてな」


 ガビアはあの時、何を思いそう毒づいたのだろうか。今となって「過去」を振り返っても仕方のないことだが……ハンニバルは水を一息で飲み干し、立ち上がると執務室を後にした。

 

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