第75話 独裁官

 イタリア半島におけるイベリア軍とローマ軍の戦いは激しいものとなった。イタリア半島に拠点を作ったハンニバル率いるイベリア軍はマルケルス率いるローマ軍と衝突し、お互いに損害を出しながら引き分ける。

 イベリア軍が拠点へ帰還する道半ば、潜んでいたスキピオ・マイヨルが率いるローマ軍が彼らを強襲し、マルケルスとの戦いで疲労の極致にあったイベリア軍はなすすべもなく拠点まで敗走する。

 

 しかし、拠点に入ったイベリア軍は拠点の守備隊二万を中心にスキピオ・マイヨルら追撃するローマ軍を退ける。

 この戦いの結果、マルケルスの部隊、スキピオ・マイヨルの部隊共に二万を超える損害を出し、イベリア軍も三万を超えるほどの死者を出した。

 

 激しい戦闘を行ったマルケルスの部隊、スキピオ・マイヨルの部隊、そしてハンニバルが率いるイベリア軍の三者は軍団の立て直しの必要に迫られたが、ローマ軍は元老院の許可なしに募兵を行うことができないため、軍団の数を増やすことが出来ず再編成のみにとどまった。

 それに対し、ハンニバルはイタリア半島の拠点防衛に配備した兵を遠征軍に組み込み、遠征軍に足りない兵力と引き抜いてしまった拠点防衛に必要な兵……合計三万人をイベリア半島の四地域から呼び寄せる。

 これらの兵は元々ローマが来襲した時のための備えとして置いていた兵であったので、軍として組織だって機能できるだけの訓練はつんでいる。

 

 イタリア半島の情勢はこのような形であったが、イタリア半島北部のガリア・キサルピナは様相が一変していた。

 ローマ軍がハンニバルに全軍を投入したため、トールとオケイオンが率いるイベリア軍のガリア・キサルピナ遠征隊は蜂起した現地のガリア人と共にガリア・キサルピナのローマ人を破竹の勢いで駆逐していた。

 二か月が過ぎる頃には、ガリア・キサルピナはガリア人とイベリア軍の手に落ち、元より大多数がガリア人で占めていたこの地は完全にローマから離反することになった。

 

 ガリア・キサルピナの民衆であるガリア人の支持は蜂起した同胞とイベリアを支持し、ハッキリとローマを拒絶する。

 トールはガリア・キサルピナとの同盟を宣言し、イベリアとガリア・キサルピナは同盟国となった。またガリア・キサルピナの統治を安定させるために、バレアレス諸島から優秀な文官であるバレスを呼びよせ、トールとオケイオンはイタリア半島を南下すべく、ガリア人の戦士を加えた軍団の再編成を行っていた。

 

――紀元前216年 イタリア半島 イベリア拠点

 ハンニバルは軍の再編を完了させ、ローマへ進軍すべく物資と補給路の確保についてカドモスと守備隊の配置について会談を行っている。

 ハンニバルの率いるイベリア軍は、この地へやって来た時と同じ兵数……六万五千まで数を戻し、新規に編入した兵も旧来の兵とそん色なく動くまでになった。

 守備隊の数も当初と同じ二万人に上り、ローマまでの補給路を確保するに十分な兵力と言えるだろう。

 

「カドモス、ではお前に守備隊の指揮を任す。お前が遠征軍にいないとなると痛いが……仕方あるまい」


「そのお言葉……このカドモス、感無量でございます。間もなくキクリスがこちらに到着いたします」


 ハンニバルのもう一人の右腕であるキクリスは、ガリア・キサルピナでトールの補佐を行っていたのだが、ガリア・キサルピナの情勢が安定してきたことと、オケイオンが思った以上に軍を率いる才能があったため、ハンニバルは彼をこちらに呼びよせることにしたのだった。

 

「お前とキクリスは古くからの私の右腕……お前たち二人がいなければ今日の私はないだろう。感謝する。カドモス」


「何をおっしゃいますか。ハンニバル様の素晴らしい戦略……並ぶ者がいない戦術あってこそです」


 お互いにお互いを褒め合い、お互いが口元に笑みを浮かべる。その時、ハンニバルの執務室の扉が呼びかけも無く開く。

 

「いよお、ハンニバルさん、お取込み中だったか?」


 敬意を払う態度など微塵も見せず、ガビアが貝紫を鮮やかに染めた帯をズリズリと引きずりながら姿を現すと、右手を軽くあげて挨拶を行う。

 カドモスはガビアがこのような不遜な態度を取ることを知っていて、ハンニバルもその態度を許容していることを理解していたが、分かってはいても彼は眉間にしわがよってしまう。

 

「いや、だいたい終わったところだ。よくぞ来た、ガビアよ」


 ハンニバルは全く動じた様子もなく、気さくにガビアへ応じる。

 もっとも、ハンニバルは自らガビアをこのような前線に呼ぶことはしない。しかし、ガビアは必要があれば例え戦闘が起こる直前の地であっても姿を見せる。

 

「ハンニバルさん、あんたがここでマルケルス、スキピオの両名を相手取り、凌ぎ切ったことは政治的に非常に大きい。さすがだぜ。ハンニバルさん」


 ガビアは珍しくハンニバルの手腕を褒めたたえる。しかし、彼の眼光は鈍い光を放ち、ここではないどこかへ思いを馳せているようにハンニバルには見受けられた。

 また、何かおもしろい情報を掴んで来たのだな……ハンニバルは心の中でそう独白し、ガビアに向きなおる。

 

「ガビア、斥候を放ちローマ軍の様子は掴んでいるのだが、政治的な話はお前の使者から聞く程度だ。何が起こっている?」


「俺っちも確定情報を掴むのに相当骨を折った。そうだな、まずはローマ元老院の楽しい様子を聞くか?」


「うむ。頼む」


「分かったぜ。ローマ元老院は――」


 ガビアはローマ元老院の話をクククと不敵な笑い声を時折挟みながら、愉快だという風に貝紫で鮮やかに染めた帯をクルクルと振り回しがなら語る。

 ローマ元老院はハンニバルの軍団を二軍をもってしても壊滅できなかったことを重く捉え、ついに独裁官ディクタトルを選出する。

 独裁官ディクタトルは王に匹敵するほどの権限が与えられ文字通り独裁的な権限を持つ地位になるが、ローマ人は独裁官ディクタトルが王になることを恐れ、ローマが本当の危機に陥らない限り独裁官ディクタトルを選出することはない。

 

 独裁官ディクタトルの任期はたったの半年、そして……選ばれたのはファビウスとのことだった。

 ローマにとって最大の難局を迎えたと言ってもいいだろう情勢下で、彼らはやはり最良の選択を行ってきたとハンニバルは思う。ファビウスは軍事的にも政治的にも堅実を自らの主義とし、その頭脳もガビアに並ぶほどだとハンニバルは見ている。

 

 ファビウスが推薦したローマの軍団を率いる二人の執政官コンスルは怪我のため片腕を失った勇将フラミニウスとルキウス・スキピオの二人だった。

 前年活躍したマルケルスは執政官コンスルを連続して務めることができないため、外れざるを得ず、スキピオ・マイヨルは若年ながら軍を率いる手腕が認められたものの、兄であるルキウス・スキピオが選出されたため、兄の補佐に回ることとなった。


「面白い人事だ。やはり独裁官ディクタトルを選出したか。相手はファビウス……一筋縄ではいかぬ相手だな」


「軍事的にはどうだ? ハンニバルさん。フラミニウスはハンニバルさんがコテンパンにやっつけた相手だよな……ルキウス・スキピオって奴は確かマルケルスと一緒にマケドニアに行っていた武人かな?」


「うむ。ローマは軍を立て直すために募兵を行うだろう。それにはフラミニウスが一番向いているだろうな。奴の弁舌はなかなかのものだぞ。しかし……」

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