第78話 カルタゴ商人

――紀元前216年 ローマ ファビウス邸

「いえ、マルケルス殿は今後『何処と』戦うべきと思いますかな?」


「そんなことですか、そうですな……ギリシャでしょう。次にシリアでしょうか」


 ファビウスはマルケルスの言葉に驚愕する。彼の考えはファビウスの思惑と正確に一致していたからだ。

 マケドニアの脅威からギリシャはローマに同盟を求め、ローマはマケドニアと戦った。この目の前にいるマルケルスの活躍によってマケドニア軍はローマ軍に敗れ、一部地域をローマに割譲した。

 しかしギリシャはしたたかだ。今度はシリアを呼び込み、ギリシャに対して影響力が強くなり過ぎたローマをマケドニアと共に排除しようとするとファビウスは見ている。

 

 つまり、イベリアを抜きにすれば次に戦うべき相手はギリシャであり、シリアなのだ。その際にマケドニアも完全にローマの支配下へ置いてしまうことも可能だろう。

 

「マルケルス殿、イベリアの名をあげないのですね」


「イベリアですか、戦って面白い相手ですが、彼らは義は通す。友好国となり、裏切るような輩ではありませんからな。積極的に撃ち滅ぼそうという気にはなりませんな」


 結果としてファビウスとマルケルスの考えは合致していたが、マルケルスがイベリアの行動原理を性格的なものと見たのに対して、ファビウスの方はイベリアが政治的な得失から約定を違えることができないと判断していた。

 イベリアはケルト人を市民として扱うという約束によって勢力を拡大してきた。もしイベリアの執政官スッフェトがあっさり他国との約定を違えたり、友好国を見捨てるようなことがあれば、支配下に入ったケルト人は気が気でなくなるだろう。

 イベリアの取って来た統治政策は、マルケルスの言葉で言えば「義」を通さねば成り立たなくなっているのだ。

 

 だからこそ、ファビウスはイベリアとは戦争の継続ではなく、和議を結ぶべきだという決断に傾いていた。イベリアが「市民の平等」を掲げるのなら、今後数十年は「義」を通す必要があるのだから。

 それでもなお、ファビウスは戦争を継続した場合の分析を確かなものにするため、ローマの将帥を此処ここに呼んだというわけだった。

 

「なるほど、ありがとうございます。『ローマの剣』と意見を同じくできて嬉しく思います」


「ガハハハ。ファビウス殿、戦場があれば呼んでください。誰よりも戦果をあげて見せましょう」


 マルケルスは白い歯を見せて豪快に笑い、ファビウス邸を後にした。

 

 ファビウスはマルケルスを見送った後、一人自室のソファーに腰かけ、ワインを口に含みゆっくりと飲み干す。

 彼はイベリア軍とハンニバルの戦果を聞く限り、和議を結ぶ方がローマにとって望ましい話だと確信する。後はイベリアに戦後の絵図を描ける人材がいるかどうかだな……

 もし自分が今のイベリアの立場にあったとして、ローマの息の根を止めるまで戦争を継続すると言われたのなら、真っ先に反対するだろう。

 ローマの諸都市は巨大で、頑丈な城壁も備えている。これを一つ一つ落としていくとなるとことだ。ローマは自身の危機とあれば、どれだけ反目しあう者同士でも協力し合うことができる。

 それこそがローマの強みだろう。イベリアがローマを完全に仕留めることができたとして、そこに至るまでにどれほどの資金や物資が必要か。

 

 ファビウスは、イベリアだけではなくカルタゴそのものも立ち行かなくなるほどの膨大な費用がかかると見る。

 ローマに勝利したとして、その後全てが荒廃しマケドニア、シリア、エジプトなどの大国に攻め込まれて滅ぼされるのが関の山だ。

 

 そう、イベリアにとって講和に最も良い時期は今なのだ。それが分かっているのならば、必ず使者はやって来る。

 もしそこまでの思慮深さがあり、政治的な局面が見えている者がイベリアの首脳陣にいるのなら、イベリアは明日の友となれるだろう……分からぬのなら……仕方あるまい。

 危機に陥ったローマの強さを身をもって味わってもらおうじゃないか。

 

 ファビウスはそこまで考えると、残ったワインを全て飲み、フウと大きな息をついた。

 

――十日後


 カルタゴの穀物商がファビウスへ是非一度お会いしたいと、傍付の者が告げた時、ファビウスは口元に薄い笑みを浮かべ不審なカルタゴ商人を邸宅に迎え入れる。

 彼は念入りに人払いを行って、自室へとその商人を招き入れる。

 

 商人はカルタゴの故地であるフェニキアの名産だった最高級の染料である貝紫をふんだんにつかった帯を床に引きずりながら不遜な態度を崩さずファビウスを斜め下ろからめつけるように見上げる。

 

「いよお、あんたがファビウスさんか?」


「その通りです。ファビウスと申します。以後お見知りおきを」


 不審な商人は不遜な態度で一方のローマの独裁官ディクタトルという最高位にあるファビウスが丁寧な姿勢を崩さない。見る者がいれば何とも奇妙な光景に見えただろう。

 しかし、目線を合わせた二人は聡明過ぎる頭脳で瞬時に理解した。

 

 目の前の男は同類だと。

 

「『カルタゴ』の商人殿でよろしかったですか?」


「ああ、『カルタゴ』の商人で構わねえ。俺っちは『カルタゴ』の商人だ」


「そうですな。あなたは『カルタゴ』の商人です」


 商人と名乗る男は「ククク」と低い笑い声をあげ、ファビウスは口元に柔和な笑みを浮かべる。彼らの挨拶はこれで足りた。これより何を話し合うのかも二人は完全に理解しているのだから。

 

「ファビウスさん、相談は二つだ。『枠組み』と『市民の支持』だ」


「あなたは予想通り、相当切れる。これまでの政治的な絵図もあなたが描いたものなのでしょうね」


「いや、俺っちだけじゃあないけどな。まあ、今回の絵図は俺っちとあんたで描くつもりだがな」


 男は貝紫で鮮やかに染めた帯をクルクルと回し、ケラケラと笑う。

 この男、切れると思ったが、予想以上にやる……ファビウスは表情を崩さず心の中でそう独白する。

 「枠組み」とはローマとイベリアの終戦協定をどのように行うかを意味し、「市民の支持」とはローマ市民がイベリアと和睦するしかないという戦況を演出することだ。

 彼はイベリアの政治家だろうが、決定権を持つ独裁官ディクタトルたる自身が、和議を行う話に乗って来ることが分かっているだけではなく、独裁官ディクタトルの限界も見抜いている。

 そう、いかな独裁的な権限を持つとはいえ、ローマ市民の支持なくしては条約など結べるはずもない。この男はそれに協力しようと言っている。

 

 これから描く絵図を元にイベリア軍を思うように動かすと言うのだ。軍を動かすのはハンニバルだろうが、決定を行うのはハンニバル……もしくはハストルバルに他ならない。

 彼はこの密室で行われただけの案を実現すると言い切っているのだから、イベリアは彼の頭脳へ全幅の信頼を置いているのだろう。

 この不遜な態度は明らかに擬態。それに惑わされるファビウスではないが、目の前にいるこの男……比類なき頭脳の持ち主に違いない……ファビウスはゴクリと喉を鳴らす。

 

「手短に話を行いましょう。まず『枠組み』ですが――」


 ファビウスは静かに口を開き、目の前の男に自身が考える和議の内容を説明し始める。

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