第73話 思わぬ事態
ハンニバルらイベリア軍は、撤退中でもなお士気が落ちていないマルケルスが率いるローマ軍へ追撃することをやめ、元来た道を引き返すべく隊列を整えていた。
「ハンニバル様、部隊はまもなく隊列が整います」
マハルバルは膝をつき、ハンニバルへ報告を行う。しかしマハルバルは苦渋の表情を浮かべている主の顔を見て取ると慌てて顔を伏せる。
「すまぬ、マハルバル。顔に出ていたか」
ハンニバルはすぐに元の表情に戻るとマハルバルへ応じる。
「いえ、マルケルス殿を追えなかったことを
「いや、そうではない。マハルバル。手負いの獣ほど厄介なものはないぞ。奴らへ追撃を行えば、こちらの方が被害が増えると私は見た。それ故、追わなかったのだ」
「失礼いたしました。いつもながらの
「いや、良い。マハルバル、先ほどはやはりマルケルスは手強いと考えていただけだ」
「確かに、非常に手強い兵でした。あの狂気は厄介です」
「うむ。まさか、最後の突撃まで突破するとはな……恐るべしマルケルス」
「きっとマルケルス殿もハンニバル様を同じように考えてらっしゃいます!」
「世辞でも嬉しいぞ。マハルバル。敵兵が奇襲してくるかもしれぬから、斥候を放ちつつ拠点に戻ろうではないか」
「了解いたしました!」
ハンニバルは頭を下げ兵の指示へ戻るマハルバルの後ろ姿を眺めながら、フウと大きく息をつく。
マルケルスとの戦闘で失った兵はおよそ一万八千、うち騎兵は千と少し、残りは歩兵だ。騎兵はそのまま動くことが可能だが、歩兵は再編成を行う必要があるな……ハンニバルは兵の構成に頭を捻る。
歩兵は補給線の確保のために呼び寄せた兵二万を組み込み、新たに同じ役割を担う兵を呼び寄せねばならぬな……しかし、マルケルスの部隊はすぐには動けまい。
我が軍と異なり、予備兵力は備えていないため、再編成を行い減じた兵のまま再び打って出るか、兵を集めて再出撃するかどちらかになる。
いすれにしても時間はかかるだろうが、減じた兵相手となると、いかなマルケルスとはいえ、我が軍の敵ではない。
◇◇◇◇◇
イタリア半島のイベリア軍の拠点まであと半日の距離まで来た頃、斥候が慌てて様子でハンニバルの元へ駆けてきた。
「ハンニバル様、ローマ軍の急襲です!」
息き絶え絶えといった様子の斥候はハンニバルへ凶報を告げる。
「ご苦労だった。敵軍はスキピオ・マイヨルの部隊か?」
ハンニバルは歯を喰いしばり、絞り出すように斥候へ尋ねる。
「その通りです。ハンニバル様! 敵の行軍は早く、我が軍へ追いつくものと予想されます!」
「ご苦労だった。すぐに指示を出す。マハルバル! カドモス!」
ハンニバルは斥候を
「ハッ!」
「いかようにもお申し付けください!」
二人は膝をつき、しかとハンニバルを見つめ彼の言葉を待つ。
「カドモス、ヌミディア騎兵、カルタゴ騎兵双方を率い、ローマ軍を逆に強襲しろ。ただし、一撃離脱を心がけるように。目的は分かるな?」
「ハッ! 稼げるだけ時間を稼ぎます! お任せください」
「兵の命を一番に重視しろ。拠点まで撤退さえできれば対抗しうる手段がある。反撃はそれからだ! 無駄に兵を減じることのないようにな」
「了解いたしました!」
カドモスは立ち上がると、一礼し馬を駆って騎兵の元へと向かう。
「マハルバル、重装歩兵の鎧を脱がせろ、お前は特戦隊と重装歩兵を率い、真っすぐに拠点へ向かえ」
「了解いたしました!」
重装歩兵の鎧は惜しい、しかし、鎧を着ていては逃げきれぬだろう……せめて大盾だけは持たせて撤退するしかあるまい……ハンニバルは拳を握りしめ眉をひそめる。
拠点にはローマンコンクリートの簡易的な城壁がある。拠点全てを覆うものではなく、せいぜい前面の兵を半分程度隠せればいいところといった長さしなかく、高さも人の背丈に倍するほどしかない。
しかし、壁を生かした戦術をとることと、拠点にいる兵二万を組み込むことでローマ軍を追い返し、十分な損害を与えることは可能だ。
拠点に入るまでにどれだけの兵を守り切れるかが勝負の分かれ目だな……ハンニバルは心の中で独白すると前を向き、兵へ指示を出し始める。
◇◇◇◇◇
スキピオ・マイヨル率いるローマ軍はイベリア騎兵が自軍へ当たった隙に彼らを避け、イベリア軍歩兵へ襲い掛かる。追撃を受けながらも後列の兵で必死に守るイベリア軍だったが、損害は避けられず兵は次々に倒れていく。
それを見たカドモスは騎兵を半分に分け、ローマ軍騎兵へ当たるとローマ軍騎兵の動きが鈍り、イベリア軍歩兵の撤退速度があがる。
削られながらも拠点まで逃げ込んだイベリア軍は一万近くの兵を失う。
結果、拠点まで帰還したイベリア軍は歩兵二万九千、騎兵八千となる。ここまで兵を減らしてしまった一番の原因はマルケルスが率いるローマ軍との死闘から来る疲労だろう。
ハンニバルは拠点に入るとすぐに拠点に控えていた兵二万のうち一万へ鎧と大盾を持たせて壁の両側を固めさせた。残りの一万には城壁の上に登らせ攻城兵器を準備させたり、疲労した兵の為に食事の準備を行わせたりさせた。
疲労した兵には休息と食事を与え、例えローマ軍が到着したとしても疲労がある程度取れるまで休むように命を下す。
ハンニバルはパンをかじり、水の入った革袋を手に持ちながら城壁の上に登る。
ここには
アルキメデスらが開発した新兵器はこれ以外にも従来の
威力は従来の兵器に比べ確かに強力なのだが、機構が複雑で壊れやすいのが難点だった。しかし、うまく利用することができれば大きな成果をあげることができるとハンニバルは見ている。
「ハンニバル様、少しはお休みになられたほうが……」
ハンニバルを案じたマハルバルが城壁の上に登っていた主を追ってここまでやって来る。
「マハルバル、お前こそ休んでおけ。お前には動き回ってもらわねばならぬからな」
「いえ、ハンニバル様がお休みになられていないというのに私が休むわけには」
「お前らしい。指揮官には申し訳ないが、間もなく戦闘が始まる。それぞれ指揮をする部隊はさきほど割り当てたとおりだ。頼むぞ」
「ハッ! 全て申し付けてあります」
マハルバルはカルタゴ式の礼を行うと、城壁を降りて行く。
――来たか
ハンニバルは独白すると、ハッキリと目に映ってきたローマ軍を睨みつける。
スキピオ・マイヨル率いるローマ軍は入手した情報によると、歩兵四万五千、騎兵七千程度だ。騎兵は先ほどの戦闘で多少は減じているだろうが、そこはあまり重要ではない。
スキピオ・マイヨルは確かに比類なき才能を持つ将帥であるが、奴の一番恐ろしいところが「学習能力」なのだ。
人づてに聞いただけ、戦場にいただけでも自らの経験として吸収し、優れた戦術を構築してくる。しかし……奴は城壁を利用した戦いを経験したことがないし、スキピオ家も街や砦を攻めたことはあるだろうが、今回のような変則的な戦いを経験したことがないはずだ。
ハンニバルはニヤリと笑みを浮かべる。
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