第72話 ローマの剣

――紀元前217年 イタリア半島

 ローマ軍の先陣をきるマルケルスは、イベリア軍を突破すべく大声で叫びながら、兵と共に前へ前へと進軍していた。

 イベリア軍は縦に深い陣形を取っていることにマルケルスとて気が付いていないわけではなかったが、彼が取った手段は「突破」、それだけである。

 正面から力でねじ伏せる。彼にとって戦術とはこれだけで、それ以外に必要がないと考えている。それ故、敵がどのような手を打とうとも、前へ進む。

 

 イベリア軍はマケドニアに比べ、兵の士気、練度共に遥かに優れており優秀なローマ兵に勝るとも劣らないとマルケルスは動物的な勘で感じ取っていた。

 しかし、彼にとってそれは些細な問題に過ぎない。

 

 現にイベリア軽歩兵、重装歩兵の隊列を突破し、後列の軽歩兵にも手をかけた。突破した敵重装歩兵が左右にまとわりついていることを認識しているが、そのようなものでマルケルス率いるローマ軍の狂走は止まらない。

 

「行くぞー! 戦士たちよ! 突破だ! 突破するのだ!」


 マルケルスは叫ぶ。彼の声に応える兵の怒号が広がっていき、ローマ軍は足にあらんかぎりの力を込め、進む。ただ進む。

 イベリア軍後列の軽装歩兵が最精鋭か……マルケルスはこれまでで一番の抵抗を見せる彼らに感嘆し、大きく息を吐く。

 

――強い、たしかに強い。


 だが、それでこそ燃え上がるというものだ。マルケルスは心の中で独白し、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべると腹にあらんかぎりの力を込めて息を吸い込む。

 

「喰い破れ! そして、進め!」


 マルケルスはそう叫ぶと、自らも槍を振るい兵を鼓舞する。

 彼の様子を見て取った兵の狂気は最高潮に達し、イベリア軍後列の軽装歩兵を打ち破っていく。

 

 そしてついにローマ軍はイベリア軍後列の軽装歩兵を突破する。

 しかし、その時……

 

 イベリア軍騎兵がロ―マ軍に向けて突撃してきたのだ。騎兵の衝撃力に足を止めさせられ、倒されるローマ軍であったが、怯むことや動揺することは無かった。

 彼らは狂気に支配されながらも、「騎兵の一撃は確かに強力だが、最初の一撃さえ終われば反撃できる」と考える程度には知性が残っており、突撃してきた騎兵へ槍を突きさそうと手に力を込める。

 

 だが……イベリア騎兵はローマ軍が逆撃に移る前に左右に分かれ前線を離れていく。

 

 なるほど、一撃離脱か……マルケルスは巧妙な騎兵の攻撃に舌を巻く。

 

「だが、二度目はない。前を塞ぐ敵兵はいない。このまま敵後方から囲むぞ!」


 マルケルスは叫ぶ。彼は兵を左右に分けてイベリア軍後方より襲い掛かろうと指示を出そうとするが、手をあげようとしたところで彼の脳裏に何か悪い予感がよぎる。

 理由はない。何かは分からないが、「悪い予感」がするのだ。マルケルスは、理性より自身の勘を信じ兵を動かす手を止める。



◇◇◇◇◇


 

 一方、イベリア軍を率いるハンニバルは、マルケルスらローマ軍の狂走に手を焼いていた。幸い騎兵の突進で彼らの足が止まってくれたお陰で間一髪であるが、間に合ったと彼は胸を撫でおろす。

 敵兵は騎兵が一撃離脱したことにより、イベリア軍を縦に切り裂いたと思っていることだろう。

 そのまま、我が軍を取り囲みに左右に分かれる可能性が高い。しかし、マルケルスのことだ。私の更なる攻勢に気が付いているやもしれん。ハンニバルはそう思い、敵兵の様子を睨みつける。

 

 やはり、マルケルスは動かぬか。だが、これを突破できるかな? ハンニバルは心中で呟き、兵へ指示を送る。

 

 ハンニバルは、後列の軽装歩兵でローマ軍を留めている間に、最前列にいた軽装歩兵を戻し、騎兵の攻撃で足が止まったローマ軍へ当たらせる作戦を取った。

 最前列の兵が間に合うか微妙なところだったが、準備はできており、彼の指示を受けた元前列にいた軽装歩兵はローマ軍へ襲い掛かる。

 

 どうだ、マルケルス。三度までなら突破できただろうが、四度目はどうだ? ハンニバルは突撃していく兵を見つめ、宿敵の顔を想像する。

 

「マハルバル、我らも行くぞ!」


 ハンニバルは傍らで静かに戦場を眺めていたマハルバルを伴い、兵を鼓舞しながら戦場を駆け始める。

 彼の言葉によって更に士気が高まり、ローマ軍と一進一退の攻防が続く。

 

 ここで粘れば粘るほど、左右からローマ軍を削り取るイベリア軍が優勢となり、突破が成ればローマ軍が逆転する情勢であったが、ハンニバルに勇気つけられた兵はローマ軍の攻勢をよく耐え、ローマ軍は数を減らしていく。

 

「ハンニバル様、マルケルス殿が先頭に立ったようです」


 マハルバルは戦場の様子をハンニバルへ報告する。ここにきて指揮官先頭か……なるほど、マルケルスらしい。ハンニバルは拳をギュっと握りしめる。

 指揮官先頭は非常に危険な手段だ。先頭に立つということは倒される可能性が格段に高くなる。指揮官が倒れれば、軍は崩壊する。死してはならぬ指揮官が、一番死にやすい先頭に立つ。

 これで奮い立たぬ兵はいない。だが、落とされればそこで終了だ。



◇◇◇◇◇


 

 マルケルスが先頭に立ったローマ軍はイベリア軍を圧倒し始め、前へ進んで行く。進むたびにマルケルスの傷は増えるが、彼は痛む様子など微塵も見せず、それどころかますます奮い立ったように怒号をあげる。

 先頭に立つ彼の怒号はローマ軍を奮い立たせ、一匹の巨大な獣のようにイベリア軍を喰わんと吠える。

 彼らの熱気がイベリア軍を飲み込み、ローマ軍はついに新たに出現したイベリア軍軽装歩兵の軍団を突破する。

 

「むう。突破はしたが、これ以上の戦闘は厳しいか……」


 マルケルスは残念そうに呟き、兵に指示を出す。

 イベリア軍を突破しこそしたが、時間がかかり過ぎたローマ軍は、相当な被害を被っており、このまま敵兵を取り囲むには辛い情勢だった。

 囲むことはできるかもしれぬが、数が足りぬ……これでは成功したとしても逃げられておしまいだろう……

 

 マルケルスは歯を噛みしめ、血が出るほど拳を握りしめると、叫ぶ。

 

「このまま前進だ!」


 もし追ってくるのなら、痛い目に合わせてやろうと牙を研いでいたマルケルスであったが、幸か不幸かイベリア軍の追撃は無かった。

 イタリア半島で行われた最初の戦い……ハンニバルとマルケルスの戦闘はイベリア軍一万八千、ローマ軍二万五千の損害を出す。

 

 この戦いの損害を数えることはできるが、勝敗については判断が難しい。

 イベリア軍はローマ軍の直進を止めることができなかったし、ローマ軍は突破に手間取り兵を減らし過ぎてしまった。お互いが思惑を達成できなかったということを考慮すると、勝負は引き分けだとするのが妥当なところだろうか。


 この戦いの結果は両軍にとって大きな意味を持つ。イベリアは「ローマの剣」と戦っても負けず、改めて強さを見せつけた。一方ローマは初めてハンニバル率いるイベリア軍へ損害を与えたことで、イベリア軍も倒せぬ敵ではないと確認することができたのだった。

 戦いが終わった両軍はそれぞれの拠点へと引き返していく。だが、事態は思わぬ展開を見せることになる。

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