第71話 熱戦マルケルス
――紀元前217年 イタリア半島
ハンニバルが率いるイベリア軍六万五千は、シチリア島北東部から対岸のイタリア半島へ渡る。彼が選んだ場所はローマの都市から少し離れた地点で、ここへ建築資材も運び込み、簡易的な港と拠点を構築する心積もりだった。
一方、テティスを出発したトールとオケイオンが率いるイベリア軍六万はガリア・キサルピナへ侵入する。彼らもまた陣地を構築し、この地にいるローマ守備隊の出方を伺うことになっていた。
拠点を構築している間にも、ハンニバルはガビアの使いに加え、斥候も放ちイタリア半島の情報を出来得る限り掴もうと動くが、ローマ共和国の本拠地であるイタリア半島だけにシチリア島での戦闘時に比べ入って来る情報は少なかった。
特にローマ軍がどこに向かっているのかの情報が入りずらいと彼は感じている。マルケルスはともかく、スキピオ・マイヨルは軍団の位置情報の大切さを理解しているだろうから、自軍の情報をこちらに与えぬよう細心の注意を払っているのだとハンニバルは推測する。
イベリア軍がイタリア半島の拠点構築を終えようとしている頃、マルケルス率いるローマ軍がこちらに向かっていると判明する。
ハンニバルは打って出ることを決め、拠点防衛を行う兵力二万をシチリア島から新たに呼び寄せることにした。この二万の兵には拠点防衛だけでなく、陸の補給路の確保を今後
拠点より一日ほど進んだ距離で、ハンニバルが率いるイベリア軍六万五千と、マルケルスが率いるローマ軍七万は対峙する。
イベリア軍は騎兵一万、歩兵五万五千。対するローマ軍は騎兵一万、歩兵六万と、騎兵兵力に関してもほぼ互角であった。
ハンニバルはいつもの弓なりの陣形を取らず、方陣を並べ長方形の陣形を組んだ。前列には軽装歩兵、中列に重装歩兵。そして後列にまた軽装歩兵である。
騎兵は予備兵力として、更に後ろに配置した。
対するマルケルスは、矢のような攻撃的な陣形を取り真正面からイベリア軍を打ち破ろうという構えだ。
今まさに戦いが始まろうとする時、ハンニバルはマハルバルと会話を交わしていた。
「ハンニバル様、
マハルバルは真っすぐに並んだ隊列を眺めながら、ハンニバルへ目を向ける。
「うむ。敵はマルケルス……奴の突破力は脅威だ」
ハンニバルは「過去」のマルケルスとの戦いに思いを馳せ、マルケルスが指揮官になった時のローマ軍の狂気とも言える前進に全身を震わせる。
もちろん、彼が体を震わせたのは恐怖からではない。これから始まる戦いに気持ちが昂っていたいたからに他ならない。
マルケルスとは三度戦った。勝ち、負け、引き分けと奴と私の戦績は互角……ハンニバルは前方を見据え、陣中で怒号のような声をあげているマルケルスを想像し拳を握りしめる。
「ハンニバル様がそこまでおっしゃる相手……マルケルス殿とはそれほどの武人なのですね」
マハルバルはスキピオ家との戦いでも見せなかった主の気合の入りように頬が紅潮する。敵が強ければ強いほど胸が高まるのは、彼が根っからの武人であることの証左であろう。
「ここにきてマルケルスとは、偶然か必然か分からぬがローマ元老院も最善の選択をしてきたものだ」
ハンニバルはふうと大きく息を吐く。マルケルスと戦うということは、お互い大きく兵を損耗することは避けることができない。
もちろん負けるつもりはハンニバルに毛頭ないが、マルケルスと戦うということはそういうことなのだ。
敵地では兵をなるべく減らしたくないところだが……相手がマルケルスとなればそれは叶うまい……だが、問題ない。打ち破り、拠点に戻り兵を再編成すればよいだけだ。
「ハンニバル様、我らなら負ける事などありませぬ」
「もちろんだ。マハルバル。勝利の後、
そうだ、見せつけてやろう。我らイベリア軍の強さを。ローマの剣といえどもイベリアを破ることができなかったとローマを恐怖に陥れてやろう。
例え兵を消耗しようが、ここで勝つことは大きな意味があるのだ。勝てばローマをそれだけ追い詰めることができる。ハンニバルは心の中でそう独白すると、右手を天へと突きだす。
さあ、はじまりだ。とくと見よ、マルケルスよ。これがイベリア軍だ。
「行くぞ! イベリアの勇壮な戦士たちよ! 我らの力を見せつけてやろうではないか!」
ハンニバルの掛け声に、周囲の兵が応じ、勇壮な
◇◇◇◇◇
マルケルス率いるローマ軍は、軽装歩兵を先頭にイベリア軍先頭に向けて突進し始める。イベリア軍前列は弓を構え一斉に矢を放つと矢はローマ軍へ突き刺さる。
しかし、ローマ軍は怒号をあげ続け一切の動揺を見せず、倒れ伏す兵を気にもとめず投げ槍を構え前進してくる。
「恐れるな、もう一射だ! 撃てー!」
前線で兵を指揮するカドモスは、動じない敵兵へ動揺を見せそうになった自軍の軽装歩兵を鼓舞すると、兵は落ち着きを取り戻し矢を放つ。
「来るぞ、敵の投げ槍が! 凌げー! 槍を構えよ!」
カドモスの声が兵に勇気を与え、ローマ軍の投げ槍を真っ向から受け止めるカルタゴ軽装歩兵たち。
彼らは膝を落とし、奇声をあげながら突進してくるローマ軍前衛へ槍を突き刺し、敵の声をかき消すように勇壮な声をあげる。
「グリフォンに栄光を! ハンニバル様に勝利を!」
自然と湧き上がった声にカドモスも同じ言葉を連ね、兵の士気はこれ以上ないほどに高まる。
気合は互角、練度もそう変わりはなかった両軍だったが、次第にローマ軍が押し始める。
――狂気……ローマ軍は傷つくことを恐れない。立ち止まることをしない。カドモスはローマ軍に渦巻く狂気を敏感に感じ取っていた。
自軍も勇壮さで負けてはいないだろう。しかし、痛みは感じるし傷ついた兵は本来の実力を発揮できなくなる。
ところが、ローマ軍は何が起ころうとも止まらない。腕が落ちようが、腹を貫かれようが、人としての活動を停止するまで止まらない。
奴らはこれまでのローマ軍とは違うとハンニバルが言っていたことをカドモスは思い出す。なるほど……これが、「ローマの剣」マルケルスか。
その時、ドラの音が響き渡り、カドモスは前列の兵を左右に動かし始める。
前方が開いたローマ軍はそのまま愚直に直進していく。前列が左右に動いたイベリア軍は中列の最も頑強な重装歩兵が敵兵を受け止め始める。
カドモスらは左右からローマ軍へ襲い掛かるが、彼の予想通りローマ軍は一切の動揺を見せずただ前へ前へと進んで行く。
中列の重装歩兵もよく凌いでいたが、ローマ軍の進出に耐え切れなくなると、ドラの音と共にローマ軍へ道を譲る。
そして、今度は後列の軽装歩兵がローマ軍を受け止める。
「やはり、ここまで進んで来たか。マルケルス!」
ハンニバルは後列まで進出してきたローマ軍を睨みつけ、感嘆の声をあげる。
「ハンニバル様、ご指示通りカドモス殿へ中列の重装歩兵と入れ替わり、最後尾まで戻るように指示を出しました」
マハルバルがハンニバルへ報告を行うと、彼は静かに頷きを返す。
「カドモスが戻り切るまで耐えられるかが勝負の分かれ目だ! ここが勝負どころだぞ!」
ハンニバルは周囲の兵を鼓舞し、馬を駆って後ろから兵に声をかけ続ける。
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