第68話 カルタゴ本国とローマ

――紀元前218年 カルタゴ本国 南東部沿岸地域

 時は少し遡り、ローマ海軍とイベリア海軍が戦いを始める頃――

 スキピオ・マイヨルはローマ元老院の重鎮であるファビウスを副将として伴い、カルタゴの南東に位置する沿岸地域に上陸していた。

 彼が率いる兵力は歩兵五万と騎兵一万の合計六万人になる。スキピオ家がカルタゴ本国を攻める案をローマ元老院に持ち込んだ時、積極的に彼らへ協力してくれたのは、文官としての実績が名高いファビウスだった。

 ファビウスは石橋を叩いて、さらに叩いて、それでも渡らないというほど冒険をせず、確実な方法を取ることで有名な男であったので、カルタゴ本国へ攻め寄せるという大胆な案に反対するだろうと思っていたスキピオ家は、意外なところで大きな助力を得ることができ、ローマ元老院でカルタゴ本国遠征が可決されたのだった。

 

 急きょ兵団を作り上げることになったスキピオ・マイヨルは、伯父と父の協力を得ながら短期間で兵団を構築することに成功した。しかしながら、自身が主体となって敵国へ渡ることが初めてなこともあり作業に忙殺されていたスキピオ・マイヨルは、これまでファビウスと事務的なこと以外の言葉を交わすことができなかった。

 

 カルタゴ本国へ上陸してから一週間が過ぎ、この地に拠点構築を済ませたスキピオ・マイヨルは、ようやく一息つきファビウスのいる天蓋へ訪問する。

 天蓋へ入ると、ファビウスは簡易的な机の上でせわしなく書類を整理しているところだった。

 

「ファビウス殿、このたびはご協力いただきありがとうございます」


 スキピオ・マイヨルはローマ式の敬礼を行い、ファビウスへ感謝の意を述べる。

 

「お互いの思惑が一致したに過ぎないのだよ、マイヨル君。君が描いたというカルタゴ本国遠征の絵図……損をしない素晴らしい案だと思ったのだ。だから、協力は当然だよ」


 ファビウスは書類を触る手を止めず、スキピオ・マイヨルへ応じた。

 

「お忙しいところ、恐れ入ります。ファビウス殿と少し話をしたかったのですが、また出直します」


 スキピオ・マイヨルはファビウスの様子から彼へ出直すことを告げるが、ファビウスは「問題ない」と呟き、手を止める。

 

「ふむ。マイヨル君が描いたカルタゴ本国への遠征は、軍事的な側面を思ってのことかね?」


「はい」


 スキピオ・マイヨルはイベリア軍を伯父と父が足止めしている間に、カルタゴ本国を攻めることで、この地の豊かな穀倉地帯を手にすると共に、厄介なヌミディア騎兵を供出したヌミディアを抑えることができないかと計画した。

 彼の見解ではカルタゴ本国にさしたる兵はなく、シチリア島以外で防衛に当たるイベリア軍を相手どるより勝ち易き敵だと分析した。いかに効率よく自軍を勝たせるか、難敵ではなく弱兵を……というのがスキピオ・マイヨルの基本指針である。

 

「マイヨル君、カルタゴ本国をローマが攻めることは、政治的・経済的、そして商業的……特に穀物の自給において大きなことなんだよ」


「攻め落とせば、政治的にも経済的にもカルタゴ本国を支配下に置けると思いますが……」


「マイヨル君、イベリアがシチリア島で敗れればそれで良し。力でカルタゴ本国を落とせばいい。しかし――」


 ファビウスは諭すようにスキピオ・マイヨルへ説明を続ける。ローマがシチリア島でイベリア軍を壊滅させ、ハンニバルを戦場で始末できるほどの大勝利をあげたとするならば、カルタゴ本国を力でねじ伏せればよい。

 スキピオ家の見解通り、カルタゴ本国に軍事力はそれほどなくローマの力を持ってすれば落とすことはできるだろう。彼の戦いでハンニバルを失うことがあれば、ハンニバルという巨星によって盛況を誇っているに過ぎないイベリアにカルタゴ本国を救援する余裕はなくなるだろう。

 もっとも完全に楽観することはできないが……イベリアには他にもハストルバルという優れた政治家はいる。とはいえ、剣を失ったイベリアはローマへ対抗する手段を失い、多くの領土を犠牲に講和するしかなくなる。

 しかし、シチリア島の戦いでイベリア軍がローマに勝利した場合こそ、スキピオ・マイヨル率いるローマ軍がカルタゴ本国へ進軍した意味が大きくなる。

 

 シチリアを失ったローマは穀物を輸入せざるを得なくなる。輸入元として最も適しているのがカルタゴ本国であり、彼らに「必ず」ローマへ穀物を拠出させるためにカルタゴ本国を押さえることはどれほどのことか想像がつくだろう。

 

「なるほど、慧眼けいがん恐れ入ります」


 スキピオ・マイヨルは軍事的な視点ではなく、政治的・経済的な視点で見ていたファビウスの深い考察に敬意を示す。これがローマ一の頭脳と呼ばれた老練な男か……スキピオ・マイヨルは瞠目どうもくし、思わず敬礼を行った。

 

「マイヨル君、シチリアの情勢が決まってからでは遅い。聡明な君なら既に理解していると思うが」


「はい。軍事以外に明るくない私であっても理解いたしました。ファビウス殿、カルタゴの有力者との渡りは既についているのですか?」


「もちろんだとも。その辺りは任せてくれたまえ。ここでのローマ軍の役割は、『反乱者』を制圧することだ」


「ファビウス殿、いつでも軍は動かせるよう準備をしておきます。逐次私へ進捗をお知らせいただけますか?」


「そのつもりだよ。マイヨル君。君はガウルス殿やマルケルス殿……いやマルケルス殿は少し違うか……軍人は皆、雄敵と戦いたがる。君が指揮官でよかったよ」


 ファビウスはすっかり白くなった髭を手でしごきながらウンウンと頷く。


「では、私はこれにて」


 スキピオ・マイヨルは軽く頭を下げると、ファビウスの天蓋から退出する。

 自身の天蓋へ戻りながら、スキピオ・マイヨルは文官や政治家と呼ばれる者への見方を大きく修正していた。弱腰で戦争を避け、耳触りの良い言葉ばかりを並べ自身の私腹を第一に考える者たちだと思っていたが、そうではないファビウスのような者もいるのだと。

 ファビウスの絵図はローマがシチリア島の戦争に勝とうが、負けようがどちらでも大きな利益をローマにもたらす無駄の無い計画だった。

 カルタゴ元老院はイベリアとローマの仲裁に入ったり、イベリアとローマの戦争が起こってからも中立を保とうとしていた。「イベリアとカルタゴ本国の政策は無関係」だとことさら主張し、カルタゴ商人はこれまで通りローマと取引を行っている。

 ローマが望めば、穀物の取引も喜んで受けてくれるだろう。しかし、イベリアがシチリアの戦いで勝利し、ローマが苦境に立たされた場合はどうだ? いや、奴らならローマの息の根が止まるまで、穀物の取引には応じるだろう。もちろん足元を見て来るだろうが。

 

 そこで、ファビウスはカルタゴ元老院の中にいる主流派……戦争を避け、親ローマ路線をとっている有力な氏族へ協力を行おうとしている。これまでカルタゴ元老院はローマに対し中立や仲裁の手を取って来た。

 この方針は、カルタゴ元老院の主流派が決めて来たことだ。もちろん、カルタゴ元老院も一枚岩ではなく、主流派以外の中立派や対ローマ派などが存在する。

 ファビウスは主流派へ上陸したローマ軍を威圧に使い、場合によっては武力討伐を行うことで、中立派と対ローマ派を一掃する提案を主流派に持ち掛けている。

 

 主流派が完全にカルタゴ元老院を制し、自らの決定を滞りなく実施するためにローマの武力を利用させる。代償は恐らく……カルタゴ本国のローマへの臣従だろう。

 カルタゴはローマの同盟国として扱われ、ローマへ毎年貢納金を支払い、ローマ軍の駐留を受ける。

 主流派は私腹を肥やすだけでなく、カルタゴという国を存続させることができ、ローマもカルタゴの富を享受することができるのだ。

 

 カルタゴの主流派が日和見を見せる前に全て決めてしまおうというのがファビウスの考えで、それにはスキピオ・マイヨルも同意する。

 力による制圧では、カルタゴ商人がローマに非協力的になる可能性は高い。カルタゴを植民州としローマ市民による統治を行った場合には、戦力化ができるまで数年はかかり、カルタゴ商人に代わりローマ商人が商業を支配するだろうが、カルタゴ商人のようになるまでには数年程度だと不可能だろう。

 となれば、カルタゴから積極的に協力を行う体制を作る必要がある。それが、カルタゴ主流派との接触というわけだ。

 

 スキピオ・マイヨルがそこまで考えたところで、彼は自身の天蓋へと到着した。

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