第67話 カルタゴ遠征の暗躍者

――紀元前218年 シチリア島

 兵を休息させたハンニバルらイベリア軍は、シチリア島のシラクサ近郊の拠点から北東にあるメッシーナへ向けて進軍を開始する。

 ハンニバルらはシラクサ近郊の拠点に斥候を除き全ての騎兵を置いてきている。なぜなら、プブリウス・スキピオ率いるローマ軍は二日前に勃発した戦闘の結果八割以上の兵を減じており、組織だって兵を率いることも不可能な状況に陥っているからだ。

 一方ハンニバルは被害を受けた兵は軽微で、編成の必要なくそのまま歩兵を率いて戦うことができる。となると、ローマ軍はメッシーナから打って出ることができず戦いは籠城戦になるだろう。

 

 籠城戦、攻城戦では馬が活躍する機会はなく、訓練に時間がかかる騎兵を下馬させわざわざ歩兵として扱うようなことは、ローマとイベリアの兵力差を顧みると必要のないことだった。

 むしろ戦争に連れて行き騎兵に負傷される方が損失だとハンニバルは考えていた。

 

 メッシーナ近郊まで行軍したハンニバル軍は遠方に見える城壁を睨みつつ、ここで休息を入れることにする。

 

「ハンニバル様、攻城兵器、バリスタ、カタパルトを点検した結果、問題ありませんでした」


 マハルバルは膝をつき、ハンニバルへ報告を行う。

 

「うむ。兵へ充分に休息を取るよう指示を出してくれ」


 ハンニバルは鷹揚おうように頷き、マハルバルへ下命する。


「了解いたしました。ハンニバル様、この後は攻城戦ですか?」


「そうなるだろうな……野戦はまずないだろう。できればメッシーナが降伏してくれればよいのだが……」


 ハンニバルは攻城戦のことを考えるとため息をつきたくなる。「過去」において彼は幾度も街を落とすべく攻城戦を行ったが、敵の数が寡兵であっても楽に街を落とせたためしがない。

 ローマの街は城壁で囲まれており、ローマンコンクリートで塗り固められた城壁を破壊することは困難を極める。そのため、櫓を組んで城壁を乗り越える必要がある。櫓にいる間は無防備になり、守勢側から一方的な攻撃を受けるのだ。

 こちらも投石器やバリスタで城壁の上にいる兵を狙うことができるが、命中率が芳しくない。

 

 街を落とすことは多大な犠牲と労力が必要で、多少の条件を飲んででも降伏させたほうが攻めるより遥かに望ましい。

 

「ハンニバル様、それでは使者をメッシーナへ送りますか?」


「既に送っている。使者が戻るまで、兵を休息させるつもりだ」


「動いておられましたか。これは出過ぎた真似を」


「いや、よい。お前も兵へ指示を出した後は休め。私もここで座して伝令の戻りを待とう」


「ありがとうございます! では!」


 マハルバルは立ち上がり、一礼するとハンニバルの元を去って行く。

 

――翌日

 ハンニバルの元へローマからの使者が来訪し、彼らは条件次第でイベリアへ降伏を行うと告げてきた。降伏の条件としては、ローマ市民とローマ軍の安全なイタリア半島への撤退であった。

 先のバレアレス諸島の海戦でローマ海軍は多大な被害を被っており、イベリア海軍の数を顧みると襲撃された場合に防衛が難しい情勢だ。彼らからしてみるとメッシーナで籠城をすることは可能であるが、軍船の数を回復させるためには時間がかかり、籠城を行うに物資が不足することは目に見えていた。

 物資がイタリア半島から無理なく入って来るのなら、メッシーナを守り切る自信をローマ軍は持っていたが、短期的な補給が望めない現状を見て降伏を選択したのだろうとハンニバルは予測する。

 兵員を無事イタリア半島へ送り届ける方が籠城するより彼らの利が大きいと判断したのだろう。

 

 ハンニバルとしては、メッシーナを無傷で落とすことが叶う方こそ損害も少なく、迅速に次の手へ移ることができるため願ったり叶ったりだった。

 結果、イベリア軍のハンニバルとローマ軍のプブリウス・スキピオの間で書欄が交わされ、シチリア島の攻防は一旦の収束を見ることになる。

 

 数日後、ローマ軍が完全撤退したメッシーナの街へ入城したハンニバルは、ガビアを伴い民会に顔を出すものの支配者層のローマ市民は全てローマ軍とともに脱出しておりもぬけの殻だった。

 ローマはイタリア本土以外の戦争で支配地に置いた地域は植民州として扱う。植民州の住民は「ローマ市民」より一段階低い地位を与えられ、支配者層はローマから来た「ローマ市民」になる。ローマ市民はかつてフラミニウスが就いていた地位である「総督」の下に民会を作り、そこで植民州を統括する。

 それぞれの街にも民会があり、その民会もローマ市民が差配した。

 支配地に対する対応としてローマは特段厳しかったわけではなく、イベリア以外の他国も似たようなものだった。それゆえ戦争に負け、国を失うことは収奪を意味した。ローマは「市民」へ昇格できる制度を持っていただけ他国に比べてまだマシだったと言えるほどだ。

 

 民会が開かれていた広い会議場でため息をついたハンニバルは、椅子に足を投げ出して腰かけるガビアへ声をかける。

 

「ガビア、メッシーナの民会を再開させるべきか?」


「そうだなあ。ローマが来る前に政治を経験した者がどれだけメッシーナに残っているのかによるなあ」


 ガビアはクククといつもの不気味な笑い声をあげながら、貝紫で色鮮やかに染めた帯をクルクル回す。

 ハンニバルとガビアはメッシーナに住む住民以外から民会に参加する市民を選ぶつもりはない。というのは、支配地の住民を市民として取り込むのがイベリアの国是であり、それをシチリア島でも曲げるつもりは彼らにはなかったからだ。

 

「ローマの支配が長ければ、政治経験者はいなくなるからな」


「あ、でもハンニバルさん、ヒエロンとシチリア島の枠組みを決めねえといけないんじゃねえか?」


「うむ。メッシーナはイベリアの領域になると思うのだ。ここはローマの拠点だったからな。奴らがまず攻めるとすればここかヒエロン殿のシラクサ以外あるまい」


「まあ、ハンニバルさんがそう見るのならそうなんだろうな。ヒエロンが二か所の防衛拠点を受け持つのは、経済的に無理だろうな。シラクサもイベリア軍の協力が必須だしなあ」


「そういうわけだ。ヒエロン殿には南半分、イベリアは北半分で提案しようと思っている」


「ククク……そうだなあ。ぶっちゃけ、メッシーナとあと一つくらい街があればいいんだが、シチリア島を抑えることが重要で、領域にすることはさして重要じゃあねえんだよな。純軍事的にはそうじゃねえのかもしれねえけど」


 やはり鋭いな、ガビアは……とハンニバルは心の中で感心したように独白する。ガビアの言う通り、シチリア島をイベリアの領域とすることは、利益にはなるがこと対ローマだけに視点を充てるとさほど重要ではない。

 重要なことはシチリア島から外へ穀物が流出しなくることで、誰の領域にするかはさほどの問題ではない。いや、正確には穀物の流出をイベリアの意思で動かすことができるのならそれで構わない。

 

 シチリア島、カルタゴ本国、イベリアのタルセッソス、サルディニア島、エジプト、イタリア半島南部……これらの地域は穀倉地帯を持つ。この中でもエジプトが突出しているが、今は考慮の外に置こう。

 ローマがまだ支配をはじめたばかりのサルディニア島はともかく、先のポエニ戦争で得たシチリア島は彼らの策源地として機能していた。シチリア島があるからこそ、ローマは穀物をほぼ自給することが可能になっていたのだ。

 シチリア島が彼らの手から離れれば、彼らは再び穀物を輸入しなければならなくなる。

 

 なるほどな……イベリアがシチリア島を巡る戦いに勝利した時のことも加味してカルタゴ本国へ手を出したのか。

 

「うむ。その通りだ、ガビア。穀物さえ押さえることが出来れば問題はあるまい」


「んだな、イベリアとは戦争中だしカルタゴ商人は日和見だ。となれば、確実に穀物を輸入できる手段……カルタゴ本国へ攻め寄せたのは先を見越した投資ってことだよな」


「いかにも、しかしガビア、ただ攻めるだけでは短期間にカルタゴ本国の穀物を自由に動かす事なぞできんぞ」


「その辺は奴らも考えているようだぜ、ハンニバルさん。やっと掴んだ情報なんだが、カルタゴ本国へ遠征したローマ軍の副将の名前がやっとわかった」


「ほう。何者だ?」


「ファビウスだぜ、ハンニバルさん」


「なるほど……マイヨルやスキピオ家だけでこの絵図は描けぬと思っていたが、ファビウスか……下手したらマイヨルより厄介だぞ……奴は」


 ハンニバルは顔をしかめ、大きく息を吐いた。

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