第63話 テルモピュレ―
――紀元前218年 シチリア島沖の海戦
イベリア海軍の旗艦に立つテウタは接弦した敵船の甲板を時折口に手をあてながら眺めていたかと思うと、「あー」「うー」と目を見開いたり頭を抱えたり忙しい様子であった。
彼女がこれほどまでソワソワした様子の原因は、この船に乗った戦闘員にあった。テウタの旗艦に乗り込んだのは、オケイオン隊五十名とマハルバル隊五十名の合計百名で構成される。
「テルモピュレ―……」
テウタの口から過去に起こった戦争の名前が漏れる。テルモピュレ―の戦い……スパルタ王とスパルタ兵はたった三百名で十万を超えるペルシャの兵団に対し一歩も引かず勇猛に戦いを挑んだ。
彼らはたった三百名のため最終的に敗れはしたが、彼らが倒した敵兵の数は二万に迫ると歴史家は記述している。
「槍が折れれば剣で、剣が折れれば拳と歯で」スパルタ兵は狂気とも言えるすさまじい戦闘を行ったという。
そんな伝説的な戦いの名を口にしてしまうほど、甲板の戦いはイベリア軍が優勢であった。いや、半数の兵は戦いさえしていない。
甲板に先を争う様に先頭で突っ込んだオケイオンとマハルバルは、迫りくる敵を鮮やかに斬り伏せると後ろに続く兵を待たずに縦横無尽に暴れまわる。
二人が連れてきた兵は傭兵団と特戦隊の中でも選りすぐりの五十名。まさに精鋭中の精鋭であった。その証拠に精強なローマ兵をまるで弱兵のごとく仕留めていく。
しかし、彼らとてマハルバルとオケイオンの傍に近寄ろうとしない。狭い甲板では比較的長い剣を振るう二人の動きを阻害することないようにというのは表向きの理由だったが、近寄ると一緒に斬られそうというのが戦闘員たちが内心思っていたことだと二人は知らない。
テウタが戦慄している間にも戦闘は進み、ローマの五段櫂船は白旗をあげた。
意気揚々と戻って来るオケイオンとマハルバルは、テウタへ片手をあげて「勝ったぞ」と態度で示す。
「二人ともお疲れ様」
テウタは若干放心状態で二人を迎え入れる。
「ヘーイ! なんだよその顔は、俺達の強さに見惚れたか?」
「正直言うと、あなたたちの異常な強さに圧倒されたわ……」
オケイオンの軽い口調にテウタは正直に応じると、彼は口笛を吹いてニヒルな笑顔を見せる。
「ここに集まった戦士たちは世界最強だぜえ。そうそうくたばらねえから安心してくれ。まだまだ行けるぜ!」
「その中でもマハルバルとあなたは目立っていたわよ。味方でさえ近寄れないくらいに」
テウタは右の手でマハルバルを、左の手でオケイオンを掴むと彼らの頬にキスをする。この仕草は彼女なりの勝利への労いだ。
彼女がマハルバルの頬へキスするとき少しだけ戸惑ったことは、彼女の心の中だけの秘密である。そんな彼女の思いもよそに堅苦しいマハルバルは一礼し口を開く。
「テウタ、次の戦いに備え予備の剣と交換してくる」
マハルバルはそう言うとスタスタと船室へと消えて行った。
テウタは名残惜しそうに彼の背中を見つめていたが、ハッとして横を振り向くとオケイオンがニヤニヤと彼女の方を伺っているではないか。
「もう! なによ!」
「何でもないぜ! 分かりやすいことだなほんと」
オケイオンの憎まれ口にテウタは分かりやすいほどに顔を真っ赤にすると、バシバシと彼の背中を叩く。
そんないつもの調子の二人ではあったが、こんなやり取りをしながらもしっかりと戦場を見渡している。ローマ海軍の護衛対象は半分程度が過ぎて行ったようで、護衛対象が全て通過すればローマ海軍は引いていくだろう。
どのような逆撃を受けるか予想がつかないため、敵が引けば引くようにとテウタはハンニバルから指示を受けている。
船の戦いは原則同数での斬り合いとなる特性上、同じ船が連続して次の船へ襲い掛かることは稀だ。なぜなら、一隻を沈めたならば被害はそれなりに出ているし、敵船が無傷ならば数的不利な状態で戦わなければならなくなるからだ。
しかしテウタが乗船するイベリア海軍旗艦はどうやら普通ではないらしい。この戦闘での死者は無し、怪我人がたったの二名という損害。これで敵船の戦闘員を半数以上葬ったのだからいかに彼らが超越した戦闘能力を持つことが分かるだろう。
続いてテウタは近くにいた敵船へ接弦する。これは船の数が同数での戦いのため、二隻目からはすでに接弦している自軍を助ける形になる。
次の戦場は若干自軍が不利な状況下であったが、オケイオンとマハルバルが斬り込むと予想通りというか、戦況が一変しイベリア軍があっさりと勝利する。
このようにして三隻目を落とした時に敵船が引いていく。テウタはハンニバルの指示通り自軍も敵船の動きに合わせて慎重に戦場を離脱させた。
この戦いでローマ海軍は半数の四十隻を失い、対するイベリア海軍は十二隻の船を失った。お互い引く形になったが、被害を見るにイベリア軍の大勝と言えよう。
イベリア軍の勝利は戦場で奮戦した戦士たちはもちろんのことだが、ハンニバルの採用した戦略によるところも大きい。ハンニバルは海戦を指揮することはできないが、海戦とはどのようなものか充分理解しており、戦いに勝つための策を練り上げた。
風上が取れる戦場の選択、兵員の入れ替え、敵の戦術を無効化するなど彼は戦場以外の面でイベリア海軍の勝利に全力を尽くした。その結果が今回の勝利を導いたのだとマハルバルはシラクサへの帰路の途上でそのように総括した。
テウタらがシラクサへ向けて航海を続けている頃、シラクサ近郊で待つハンニバルの元へ一足早くガビアの使者が到着する。
ハンニバルは海戦の戦闘経過と両軍のおおよその損害を聞き口元を綻ばせる。これでローマはしばらく大胆な海戦に打って出ることはないだろう。
といっても、スキピオ軍はメッシーナへ無事渡り切り、これを撃滅せねば勝利とは言えないだろう。ハンニバルは次の戦いへの勝利をカルタゴの神バールへ祈る。
彼の思いを破るように、ガビアが貝紫で鮮やかに染めた帯を床にズリズリ引きずりながらテントに入って来た。
彼にしては珍しく息を切らしていたことにハンニバルは何か重大なことが起こったのだろうと予想し、彼に水が入ったコップを手渡しながら尋ねる。
「ガビア、どうした?」
「ハンニバルさん、ローマ元老院がとんでもねえ声明を出しやがったぞ」
「どんなものなのだ?」
「サルディニアとコルシカの反乱を放置したカルタゴへ制裁をだってよ」
「占領を行ったのは我々イベリアなのだがな、奴らから見たらカルタゴもイベリアも同じなのだろうが」
「察しはつくと思うが、ハンニバルさん、カルタゴ本国へローマ軍が向かってるぜ」
「イベリア海軍がローマ海軍と戦っている間に動かしたのか! やるではないか……敵兵力と指揮官は分かるか、ガビア?」
「指揮官は分かるが兵力はまだ掴みきれてねえ。そのうち分かると思うが」
「なるほど。指揮官の名だけ先に教えてくれるか?」
「ああ、指揮官はスキピオ・マイヨル。若いなこいつは」
「スキピオ・マイヨル……」
ハンニバルは地の底から響くような声で、スキピオ・マイヨルの名を呼ぶ。
奴か、奴がカルタゴ本国へ遠征する案を打ち出したのか。スキピオ家率いるローマ軍の動きが遅かったのも、カルタゴ本国へ攻める兵を集めていたからだろう。
ハンニバルはギリっと歯を噛みしめる。スキピオ・マイヨルの性質をハンニバルは一応理解している。奴は戦いに対し熱することもなく、ただ勝ち易きところに勝ち、効率こそ重視する。
ハンニバルは蛇を彷彿させるスキピオ・マイヨルの顔を思い浮かべ、奴は蛇ではなく昆虫のようだと改めて認識する。冷徹に作業を推し進める彼の性質は働きアリやハチが餌を集めるがごとしだと。
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