第61話 エジプトの様子
――紀元前218年 シチリア島 シラクサ近郊
ハンニバルがカドモスらに指示を出してから二か月ほどがたとうとしていた。この間にハンニバルはシチリア島の制圧を完了しており、兵と共にシラクサ近郊の拠点へと帰還する。
ハンニバルがローマ守備隊を破ると、シチリア島の住民は手の平を返したようにローマからイベリアに支持を変え、ハンニバルらを歓迎する姿勢を見せた。
ハンニバルとしてはイベリアへ寝返ってくれるのは悪くないことなのだが、こうもあっさり彼らがローマから寝返ることへ不安を感じた。というのは、ローマが攻めて来ることは確実で、いざ攻めてきた場合にあっさりとローマへ尻尾を振られるとすれば、占領したことが無駄になるだけでなく逆に危機に陥ることも考えれる。
そこでハンニバルはシチリア島の市民へこれよりローマ軍が来襲することを知らせ、イベリアへの支持が揺るがぬのかを問うことにした。
シチリア島にある比較的大きな街のいくつかの民会に招待されたハンニバルは、ローマが来襲する危機を述べ、ローマにつくならばついてよい、自立するならそれもよし、少なくともローマをイベリアが打ち破るまではイベリアは諸君らの意見を尊重し、イベリアにつかぬ場合でも何も手を出さないと演説し、民会へどのような立場を取るのか即座に決めさせた。
結果、僅か二つの街が中立。残りは全てイベリアへつくことになったのだ。シチリア島はローマに支配されて日が浅く、かつローマから植民州ということでローマ市民の支配者より二段階ほど落ちる扱いをされていた。
これに内心彼らは憤っており、どこかで反抗する機会を伺っていたことが背景にある。
戻ったハンニバルはカドモスへ拠点の状況を確認すると、ハンニバルの元へやって来たガビアと会うべく自身のテントへ向かう。
ガビアはトールがテティスに来るとすぐに単独でここシラクサ近郊の拠点までやって来たそうだ。自身が戻るのをここで待っていたとカドモスから聞いたハンニバルは、彼とさっそく会おうとガビアを自身のテントに呼んだというわけだ。
ハンニバルは遠征中もガビアの使者からスキピオ軍の情勢を聞いていたが、彼らはまだ移動を開始しておらず、彼らを護衛するローマ海軍もまたイタリア半島に留まったままということだった。
そのため、テウタらにはイベリア海軍の行動を秘匿するため、サルディニア島の南部に回航をさせ、その地で留らせている。ローマの進軍に合わせて彼女らイベリア海軍は一気にシラクサへ動き、補給とマハルバルらと人員の入れ替えを行い、ローマ海軍を強襲する予定だ。
ハンニバルが今後の行動を頭の中で確認している間に彼は自身のテントへと到着する。
中に入ると、ガビアがドカッとラグの上に胡坐をかいており、ハンニバルへ片手をあげて挨拶をする。
「よお、ハンニバルさん」
「まさか来るとは思わなかったぞ」
ハンニバルは言葉とは裏腹に笑顔で彼と握手を交わす。ガビアが来てくれたのは非常に心強い。使者を通じて彼が掴んだ情報はこちらにもくるが、やはり直接指揮を執るガビアが手元にいてくれたほうが、情報が入るのは格段に速くなる。
ハンニバルは「過去」の経験から情報は戦術と同じ、いや下手すればそれ以上に重要なものだと認識している。だからこそ、これまで彼は情報が出そろってから動くようにしてきた。
「ローマのことから話をするか? ハンニバルさん」
「『ことから』ということは他にもあるのだな?」
「まあ、それなりにあるぜ。ローマのスキピオ軍はあと一か月くらいでシチリアへ渡ってくると予想している。ローマ元老院の裁可がそろそろ下りそうだからな」
「ふむ。カルタゴと同じでローマも元老院の決定なくしては動けぬからな」
「いや、ローマ元老院の決定というよりは兵の再編に時間がかかっているようだぜ。やつら、更に兵を集めているみたいだな」
「ほう……他の地も攻めようとでもいうのか奴らは……」
ハンニバルは低い声で呟くが、ガビアは首を横に振り口を開く。
「掴めてねえ。奴らの増えた分の兵はどうなるのかわからねえ。すまないな。ハンニバルさん」
「いや、よい。来るものは全て打ち倒す。それだけだからな!」
「さすがだぜ、ハンニバルさん。とりあえず奴らはまだ兵を集めていて、一か月後にはこちらに渡って来るってことだ。兵を分けてどこか他の所へ行くのかはわからねえ」
「情報感謝するガビア。いずれにしろシチリア島へ来る部隊が主力だろう。他がどこへ行くのかつかめたら教えてくれ」
「あいよ。任せときな。あと、もう一つあるんだが」
「最初に言っていた他の件だな」
「おう。そうだぜ。ええとな、エジプトのことだ。ハンニバルさんにもちらりと話をしていたが、俺っちの手の者がエジプトで暗躍しているのは知っているよな」
「ああ、聞いている。お前のお陰で
ハンニバルは「過去」のエジプトと現在のエジプトが決定的に違っていることを頭の中で確認する。エジプトの
しかし、現在プトレマイオス三世は存命なのだった。彼が生きている理由は「暗殺を逃れた」からだとガビアから聞いている。ガビアの手の者が暗殺を未然に防ぎ、プトレマイオス三世は生き延びることができた。
彼が生き延びていたことはエジプトの政権を安定させるうえで大きく貢献した。プトレマイオス三世は名君と呼ばれており、その実績も名君と呼ばれるに
彼が崩御すると、彼の後をついで
シリアを撃退したものの、地中海一のエジプトの権勢は陰りを見せシリアやローマに見劣りするまでになってしまう。
だが、今回は違う。プトレマイオス三世は存命であり、アトレと結婚したプトレマイオス四世の弟も無事だ。それに加え、プトレマイオス四世となる王子の生活も乱れていない。
ガビア曰く、「怪しい奴」を幾人か
正直ガビアからエジプトの報告を聞くたびに、ハンニバルはガビアの余りの剛腕に目を見開いたものだった。
「正確には毒殺だがな、まあそれはいい。
ガビアは
「なるほど。一年先に
「まあ、そうならないように死期を悟った
「他国が動けば対ローマ戦線も劇的に変わる可能性が無いとは言えぬからな。動きがあれば教えてくれ」
「あいよ」
ガビアは懐からバナナを取り出すと、皮を剥き口に運ぶ。モグモグと音をたてながらハンニバルと目があったガビアは彼へ「食べるか?」と目で合図を行い、バナナを彼へと差し向ける。
しかしハンニバルはバナナの味が余り好みでなかったこともあり、首を横に振った。
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