第60話 迎撃準備

――紀元前218年 シチリア島 シラクサ

 シラクサの拠点まで戻ったハンニバルの元へガビアの諜報員が次々にやって来る。彼らが持ってきた情報を整理したハンニバルは、ローマが一気呵成に攻めて来るだろうと予想がついた。

 ローマではスキピオ家が総数七万近い兵を集めていると聞く。新規に創設されたこの軍団はそろそろ動き出すだろう。先日打ち破ったフラミニウスの兵は四万ほど残存しており、彼は兵を立て直すためシチリア北東のメッシーナから対岸のイタリア半島へ兵を動かすと聞いている。

 となれば、スキピオ軍とフラミニウス軍は合流しシチリアへ再び渡ってくることが確実だ。

 更に、マケドニア戦争が「過去」に比べ極端に早く終結したと情報が入った。「過去」と異なりマルケルスが指揮官となったことが大きいのだろうが、やはりあやつは相当やる。

 彼は数に勝るマケドニア軍を苦も無く叩き潰し、副将のスキピオ家の者……名前を掴めなかったがかなりの確率でスキピオ・マイヨルの兄ルキウス・スキピオだろう……へ後を任せローマへの帰路についた。スキピオ家の者といえども、マルケルスの副将を務めるには猛将の気質が無ければ難しいだろうからな。

 ハンニバルが思い浮かべたスキピオ家の猛将と言えば、スキピオ・ガウルスとルキウス・スキピオ以外存在しない。ガウルスは現在ローマで弟のプブリウスと共に兵団を構築しているから、ルキウスだろうと彼は推測した。

 

 マルケルスが思ったよりはやくローマに帰還し、スキピオ軍とフラミニウス軍は早々に合流しシチリアに来る。

 マケドニアに拠出した兵力のうち半数程度はマケドニアに残るにしても、三万、四万程度ならローマ元老院が許可を出せばすぐに集まるだろう。

 一つ明るい情報もある。マハルバルの槍に貫かれたのはフラミニウスだったようで、彼は重傷を負い向こう一年間は行動不能だということだ。

 

 どう攻めてくる? ローマよ。

 だが、これは大きな好機だ。ここで動かねば、ローマの後手を踏んでしまうことになりかねない。

 

 見ておれ。ローマよ。ハンニバルは口元に笑みを浮かべ、傍付の者へ伝令の者とマハルバル、カドモスを呼ぶように指示を出す。

 

 ハンニバルが自身のテントから出て待つことしばし――

 

 マハルバル、カドモス、伝令の者の三者がハンニバルの元へ駆け足で抜きつ抜かれつやって来る。

 急ぐのは理解できるのだが、この光景を微笑ましく感じたハンニバルはつい声をあげて笑ってしまう。

 

「そう急がずともよい、競争ではないのだからな!」


 ハンニバルは全力疾走をしている三人へ聞こえるよう大きな声で叫ぶと、三人ともハッとなり足を止めた。

 ハンニバルはそれを見てますますおかしくなり、彼にしては珍しいくらい顔を崩して笑う。彼は笑いながらも傍付の者へ水を持ってくるように命じた。

 

 三人が到着するとハンニバルは彼らをテントの中へ招き入れ、水を差しだす。

 

「まず、それを飲め。ローマの情勢はだいたい掴んだ。動くぞ」


 ハンニバルの言葉に水を飲み干した三人は膝を付き頭を下げる。

 

「一つ、スキピオ軍がシチリアへ渡る際にパウルス率いる海軍を横から叩く。きっとパウルスは全軍で護衛に当たるはずだ。フラミニウスの時もそうだったからな」


 スキピオ軍の輸送は人員も物資も膨大なため、イベリア海軍に襲われた時の被害が甚大になる。イベリア軍がくることを警戒してフラミニウス軍を輸送するときも全力で護衛にあたっていた。

 ハンニバルはどのような隊列で護衛を行ったのか調べさせており、その時のローマ海軍の様子は掴んでいた。

 しかし、そのまま行かせては地理的優位は取れるだろうが兵の質で劣り、同数の軍船の数では不安が残る。

 

「海軍を動かすのですね、ハンニバル様」


 ハンニバルの言葉にこの中で最年長のカドモスが応じる。

 

「うむ。しかし、ただ動かすだけでは足りないのだ。そこで、テティスを防衛しているオケイオンと『禿鷲クフブ傭兵団』の全軍を船に乗せる」


 ハンニバルはローマが動けない今だからこそ、オケイオンを防衛から外しイベリア海軍の兵として『禿鷲クフブ傭兵団』と共に乗せることを提示する。

 『禿鷲クフブ傭兵団』は先日の海戦の結果からローマ兵より質が高いことが分かっており、勇戦が期待できる。ここ数年で『禿鷲クフブ傭兵団』も三千名まで数を増やしているからかなりの戦力になるはずだ。


「なんと!」


 カドモスは驚きの声をあげるが、ハンニバルは鷹揚おうように頷くと言葉を続ける。

 

「ローマは今すぐに出撃できる陸軍は存在しない。海軍はシチリアに渡るスキピオ軍にかかりきりだ。ならば、この隙に全力で攻める。更に、マハルバル」


「ハッ!」


 名前を呼ばれたマハルバルは敬愛する主の顔をしかと見つめ、彼の言葉を待つ。

 

「シチリアに遠征している我が軍の『特別隊』千名を率い、テウタ殿の率いる船に乗れ。お前たちは『禿鷲クフブ傭兵団』に劣らぬ実力者揃いだ」


「了解いたしました!」


「これで『禿鷲クフブ傭兵団』の三千名、『特別隊』の千名が海軍に加わることになる。海軍全体の兵員は八千名になるので、半数を船から降ろせ。降ろす場所はここシラクサだ」


 ハンニバルは持てる力の全てを海軍につぎ込み、イベリア海軍を勝利に導こうと戦術を練った。マハルバル自身もそうであるが、「特別隊」は乱戦となった時に道を切り開くため結成された剣の達人を集めた集団になる。

 元々はハンニバルの包囲殲滅陣の穴を埋めるため集めた人材であったが、ここで使わない手はない。

 これで、ローマ兵より質の優れた者が半数になった。残り半数についても、八千を四千にすることで兵の質は上がるはずだ。これでローマ軍と質において互角以上の戦いができるはずだ。ハンニバルはそのように考えたのだった。


「シラクサで補給を行い、ローマ海軍を攻めるというわけですな」


 カドモスがハンニバルの言葉を補足するように発言する。

 

「うむ。ここで再編成もできて一石二鳥だ。もう一つある。トールをテティスに呼び寄せ兵を募らせ、新領土である三つの地域の政治も執り行わせる」


「ではバレアレス諸島はいかがなさいますか?」


「イベリア海軍の戦果次第だな。勝てばローマはバレアレス諸島へ攻め寄せることができなくなるだろうからな」


「なるほど、確かにローマ海軍が敗れれば、まず進出するのはシチリアかサルディニアでしょうからな。制海権を取り戻すために躍起になってくるでしょう」


「その通りだ。そして、カドモスへ念のため兵一万五千を預ける。お前はここを防衛せよ。私はローマ守備隊を駆逐しメッシーナ以外の地域を制圧する」


 一応の守備隊を置いておかねば、決起したシチリア島に住むローマ市民が、シラクサへ襲い掛かって来る可能性もある。シラクサの防衛は必須だろうとハンニバルは思う。


「ハンニバル様がシチリア島の制圧を行うのは、ローマとの海戦が始まるまでの期間でしょうか?」


「うむ。しかし一か月もかかるまい。人心はきっと我らにあろう」


 ハンニバルの考えはこうだ。メッシーナ以外のシチリア島の確保は敵が手薄なうちにやっておきたい。ローマ市民以外のシチリア島に住む住人は大なり小なりローマ市民から搾取されている。

 イベリアならば、搾取はないと彼らに喧伝しこちらに引き込む。もちろんその前にローマの守備隊は全て撃滅しておく。後から本体と合流されても面倒だからな……ゴール地方や東ローヌと同じというわけにはいかないだろうが、上手くすればシチリア島はあっさりとイベリアの手に落ちるだろう。

 

「ハンニバル様、それでは私はその旨を関係者へ伝えに走ります」


 伝令の者はハンニバルへ敬礼すると、ハンニバルも「頼む」と彼に依頼を行った。

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